吉田健一は激賞する

雁の寺(全)

水上勉さんの『雁の寺(全)』*1(文春文庫)を読み終えた。
「雁の寺」は第45回直木賞受賞作で、水上さんの代表作である。現在入手可能なテキストは、いまひとつの代表作「越前竹人形」と併録されている新潮文庫*2のみであるようだが、新潮文庫版には「雁」連作四篇すべてが収録されているのだろうか。たぶんその可能性は薄い。連作のみで構成された文春文庫版が320頁のボリュームだからだ。
さて文春文庫版には上記のごとく「雁の寺」のほか、その続篇にあたる「雁の村」「雁の森」「雁の死」の計四篇が収録されている。あとがきのなかで水上さんは、杜撰さが目立ったという「村」「森」を中心に徹底的に改訂を加え、「この「文庫版」発行を機に、旧版「雁の寺」四部作は絶版することにしたい」と宣言している。1974年10月に刊行され、古本屋で私が入手したのは83年1月の第8刷。帯は「芥川・直木賞作家フェア」となっている。この定本ですらいまでは簡単に入手できないのは嘆かわしいことで、たまたま見つけることができた幸運を喜びたい。
「雁の寺」といえば、『大衆文学時評』で吉田健一が激賞したという印象がきわめて強い。なにしろ『大衆文学時評』で吉田健一が取り上げた作品はいまなお読みつがれている名作・傑作が多く、個人的にもこれをきっかけに気になり読むようになった作家は多い(くわしくは旧読前読後2002/7/13、2003/3/17条など参照)。そのなかでもこの「雁」連作は飛び抜けて高い評価を与えられている。
主人公の少年禅僧堀之内慈念の人物造型の見事さ、キャラクターの強さと、最初に彼が入門した京都孤峯庵の住持殺しという謎をひとつの主題にしたミステリ的要素、禅寺の禁欲的生活の裏に秘められた僧侶たちの性衝動という両面性などが読む者を強く惹き寄せる。カバー裏の紹介文には、「著者の体験にもとづいた怨念と濃密な私小説的リアリティによって、純文学の域に達したミステリー」とある。「純文学の域に達したミステリー」だから評価されるのかという屁理屈を押し立てた反論ができるが、こんな議論は吉田健一がもっとも嫌うところかもしれない。
「今月(1961年5月―引用者注)の傑作は水上勉氏が「別冊文藝春秋」に書いた「雁の寺」である。そしてこれは推理小説としてはといふ意味で言つてゐるのでもないので、傑作には常に傑作といふ一種類しかない」と書き出した“「雁の寺」礼賛”はこう続けられる。

「雁の寺」で描かれてゐる寺の住職も、その女も、又その女を前に囲つてゐた画家の生涯と死も、従つてそこにはその他にも人物や、草や木や裸の椎の木に止る鳶や、又京都の衣笠山の麓にある寺があつて、一口に言へば、この世界は我々が住んでゐるのと地続きになつてゐる。誰が殺されるかといふことよりも、ここにゐる人達が現在どんな風にその現在の瞬間を生きて互に交渉してゐるかを我々は刻々に知らされて、そのことで満足し、それ故にその先が読みたくなる。(著作集第15巻、14頁)
「草や木や裸の椎の木に止る鳶」もまたわれわれと地続きの世界に生きていて、小説世界に生きている人が現実世界のわれわれと同じように生きていることが伝わってくる小説。吉田健一の理想とする小説はこれに尽きるから、もう最大級の讃辞と言ってよい。いかにもの吉田健一節が展開されていて、読みながら微苦笑を誘われる。
吉田による激賞ぶりは「雁の寺」一作にとどまらない。続篇「村」「森」「死」もまた、依怙贔屓と言っていいほど、すべて同じトーンで褒められている。たとえば「村」は「水上氏の経験から想像する推理小説といふ一つの型に嵌つたものでもなくて、これはただの小説である。読んでゐて、日本ではそのただの小説といふものが殆どないことを改めて思はされ、…」(32頁)と、これも吉田流最大級の讃辞である。
三作目「森」では、「これで「雁の寺」で始つた水上氏の小説は完結したと見ていいやうである」(70頁)と早合点してしまう。もっともこれを早合点というのは、このあと「死」があることを知っているからであり、吉田はこの三作で十分と見たのかもしれない。
しかし完結編「死」が発表されたとき、あらためてこう褒め上げる。
「雁の寺」で始つた水上勉氏の、小僧慈念を中心とする作品は、この前に出た「雁の森」で終つたのではなかつた。(…)この小説の性質からして、推理小説などで犯罪を一つ作り、その犯人が挙げられればおしまひになると言つた風のものとは別な種類の解決がなければならないことは明かだつたが、「雁の死」でその解決が与へられてゐる。それが思ひ掛けないものだつたことは、文学の作品として当然であつて、読者は何かと予想し、期待して、解決を示されればそれがさうである他ないことを感じる(つまり、「雁の寺」で始つたこの小説は確かに「雁の死」で終つてゐるので、その意味でも、これは是非とも一冊の本に纏められるべきである)。(89頁)
「森」で完結したと言っておきながら、この連作は「死」で解決を与えられ終わらねばならないと主張するとは何とも素早い変わり身かと苦笑せざるを得ないが、実際吉田のいうように三作目「雁の森」まではおろか、「雁の寺」一作を読むだけではまったくの中途半端であることは目に見えている。
文春文庫版解説は野口冨士男さん。この解説がまた委曲を尽くした素晴らしい内容で、背景にある作者の経歴を整理しながら作品の面白さを指摘する、解説文とはかくあるべきというものだった。
これを読んで、主人公慈念の禅寺を転々としながら成長していく姿が実際京都の臨済宗寺院瑞春院・等持院で暮らした作者の半生とほとんど重なることを知って驚いた。禅寺、禅宗というのは、特殊な用語の多い仏教各宗派のなかでもとりわけ専門用語が多く、また禅寺での生活も通常われわれが想像する寺院の生活とは多少肌合いが異なって理解しがたいものがある。禅宗関係の史料を読みながらかねがねそんなことを考えていたのだけれど、この小説を読むことで日常的な禅寺の生活がだいぶ分かってきた。そんな意味でもためになる小説で、得たものは多い。