明治文豪たちと西洋音楽

漱石が聴いたベートーヴェン

先日読んだ宇佐美承『池袋モンパルナス』*1集英社文庫)では、東京美術学校出身の画家たちが多く登場した。東京美術学校の後進はいうまでもなく現在の東京芸術大学東京芸大にはいまひとつの柱音楽学部があり、こちらの前進は東京音楽学校である。美術と音楽、「芸術」というくくりで一つの大学になってはいるものの、この二つの学部間には派閥抗争的な対立はないのだろうか。
まあそんなことはどうでもいい。美校関係の本を読んでほどなく音楽学校関係の本を読むことになるとは予想していなかった。瀧井敬子さんの漱石が聴いたベートーヴェン―音楽に魅せられた文豪たち』*2中公新書)である。
明治の近代社会になると、西洋音楽もまた日本に輸入された。欧米の文化・制度を導入する一環で洋楽輸入の制度的基盤もまた整えられる。その中心になったのが文部省音楽取調掛である。のち音楽取調所を経て東京音楽学校となる(何だか私の職場のような名前の変わり方だ)。
著者瀧井さんは当の芸大出身で、音楽プロデューサーとして現在も芸大でお仕事をされているらしい。本書ではこうした「音楽家」の視点から、輸入まもない西洋音楽と接点をもった小説家たちに光があてられている。
取り上げられているのは森鴎外幸田露伴島崎藤村夏目漱石寺田寅彦永井荷風。書名は「漱石」と「ベートーヴェン」が使われているが、これは大正2年(1913)12月に奏楽堂で開催されたコンサートを指すらしい。「日本の洋楽史上重要な」コンサートなのだという。
漱石はもとより謡・俗曲など邦楽をよくしていたが、自らヴァイオリンを弾くこともあったという教え子寺田寅彦の影響もあり、洋楽のコンサートに足を運んでいた。『野分』に描かれたコンサートの様子が紹介される。
とはいえ本書で漱石はさほど大きく取り上げられているわけではない。むしろ前半三人、鴎外・露伴・藤村の洋楽との関わりに比重が置かれている。
鴎外はドイツ留学中いちはやくオペラに触れ、大正に入ってから「オルフエウス」というオペラ台本を翻訳する。
また露伴は、有名な話だが二人の妹が音楽家だった。上の妹延は国費による音楽留学生第一号としてボストン・ウィーンなどへ留学し、帰国後母校音楽学校教授としてその道をリードする存在だった。下の妹幸は国費留学生第二号としてベルリンへ渡ったヴァイオリニストである(ちなみに第三号は延の弟子滝廉太郎)。露伴自身も幕府お茶坊主の家に生まれたことで音楽的素養には恵まれ、洋楽についても「音と詞」という本格的な音楽論を書いている。
藤村は自ら音楽学校の選科生として入学したり、ピアノの助教授橘糸重と恋愛スキャンダルを騒ぎ立てられたりする。
本書の特徴はこうした作家と音楽の関わりを音楽家の視点から資料を探索し読み解いたことである。鴎外によるオペラの訳文が「歌手にとって歌いやすく、耳にも非常に心地よい」と評したり、藤村が歌詞を書くにあたり、歌詞の一節を「くらきうしほの」を「たかきうしほの」と変更していることについて、

歌ってみたら母音の「う」で始まる「くらき」よりも母音の「あ」で始まる「たかき」の方が、喉が開いて、歌いやすかったからではないだろうか。(138頁)
と推測するなど、専門家ならではの指摘になるほどと唸らされる。明治期においては輸入楽譜は貴重品で、「音楽の専門家でも、輸入楽譜を手に入れるのはむずかしく、写譜して楽譜を集めていた」(133頁)というエピソードも、本書のようなテーマの本でも読まないかぎりわからない事実で、ひとつ勉強になったのだった。