文壇を語るうえで欠かせぬもの

文壇放浪

「壇」という文字が後ろにつく単語を『逆引き広辞苑』で引いてみる。演壇、戒壇、花壇、歌壇、画壇、基壇、教壇、劇壇、講壇、護摩壇、祭壇、詩壇、聖壇、登壇、俳壇、雛壇、仏壇、文壇…。
戒壇護摩壇といった仏教用語を別にすると、具体的なモノを指す言葉と、比喩的な言葉に大別される。前者には、演壇、歌壇、基壇、祭壇、仏壇などがある。後者には歌壇、画壇、詩壇、文壇、俳壇などがあろう。教壇の場合、黒板を背にして先生が立つための平たい台という具体的なモノを示すときと、教師として講義することの比喩として「教壇に立つ」という使い方をするとき両義がある。
後者、歌壇、画壇、詩壇、文壇、俳壇というのは、それぞれ歌人、画家、詩人、文士、俳人らの社会集団、共同体といった意味合いである。これらに「壇」が付いているということから、一般社会とは隔絶された、しかも一段高い位置にあって、仏教語(戒壇など)の類推からはそこに入るのに何らかのイニシエーションを必要とするといった印象を与えられる。
これらはおしなべて曖昧で定義が難しい。何をもって○壇といい、それに属する(入る)契機、資格というものがあるのか。規約のあるような会員組織ではないからだ。
ただ、大村彦次郎さんの『文士の生きかた』*1ちくま新書、→2003/10/27条)を読んだとき、文壇とは、「文士」と呼ばれた「世の常識とは異なる生き方」をしていた作家集団によって構成されていたとあり、文壇がたんに作家の社会という抽象的な意味合いではなく、歴史具体的な存在であったことを教えられ、目から鱗が落ちたのである。
水上勉さんの文学的回想録『文壇放浪』*2新潮文庫)は、さらに「文壇」という存在を強く印象づけさせる内容だった。本書は禅院の小僧時代から、投稿少年だった時代、そこから東京に出て出版社に勤め、一編集者として著名作家と出会い、自らも作家として「文壇デビュー」を果たし、文壇のなかで生活してきた人生をふりかえったもので、谷崎潤一郎宇野浩二野口冨士男和田芳恵川崎長太郎柴田錬三郎川口松太郎木山捷平中山義秀といった先輩作家たちとの交流が、興味深いエピソードとともに綴られている。
ここで水上さんはこんな表現を使っている。

私は、文学賞をもらって文壇に入った年の夏末に、もう一人前に軽井沢文士のゆきかう旧道銀座を夜ふけに散歩する作家になっていた。(…)私はたびたび文壇というところを角力土俵にたとえてきたが、土俵の俵の外を歩いていた男が、四十歳になってようやく、砂を踏める丸い俵の内へ入っていたのである。(151頁)
文学賞」とは、言うまでもなく「雁の寺」で受賞した直木賞のことで、水上さんは直木賞受賞が「文壇に入」るきっかけであると認識しているわけだ。そしてそんな文壇人になってからの特有の行為として、本書を読んで強く刻まれるのは、文士劇・文士ゴルフ・講演旅行の三つである。
文士劇では、お軽勘平の「道行き」で勘平を演じたさい、お軽は柴田錬三郎、鷺坂伴内は山口瞳であったと回想されている。文士ゴルフでは柴田錬三郎源氏鶏太丹羽文雄らと交遊を深めたらしい。
講演旅行では、同行した小林秀雄のエピソードが印象深い。同じく同行した中村光夫が、姿の見えない小林秀雄を探しに、朝早く宿近くの公園まで出かけたところ、小林はベンチに座って講演の練習をしていた。小林は「昨夜は聴衆の手応えがなかったので……」と言い訳したという。水上さんは、「その日その日が勝負だった。投げやりな一日とてなかった先輩たちの修羅である」(164頁)と書く。
また、小林秀雄永井龍男と同道した講演旅行では、新潟で里見紝が合流し、夜の酒席で里見が忠臣蔵道行の鷺坂伴内を三味線に合わせて面白おかしく踊った場面に遭遇したという。かけだしだった新人作家水上勉が、文壇に入って先輩作家とともに講演旅行を行ない、大御所里見紝のご機嫌な姿を目撃する。
文壇というところは、このような機会をかけ出し作家にあたえたのであった。私が語りつがないと、このような新潟の一夜のことは消えてしまう。(164頁)
いま引用した文章にあるように、本書の水上さんは、文壇という社会集団のかたちを強く意識し、そのなかで自らを導いた諸先輩・友人たちへの敬意を込め、文壇を語るうえで欠かせない文士劇・講演旅行・ゴルフというものを後世に語り伝えようという気概に満ちている。その意味で本書は、戦後文壇という歴史的存在を考えるうえでの貴重な文献となるに違いない。