実作者から見た松本清張

松本清張あらかると

阿刀田高さんの松本清張あらかると』*1中央公論社)を読み終えた。
本書は阿刀田さんが編集に携わった中央公論社松本清張セレクション』全36巻の各巻末に「編集エッセイ」として掲載された文章をまとめたものである。本質的には各巻に収録された清張作品の解説だが、当初よりこれらを一書にまとめることが予定されていたため、エッセイ風の記述になるよう心を配ったという。
結果としてどのような内容の書物になったか。

各巻の解説ばかりでなく、私自身のエッセイを……巨視的な松本清張観やミステリー論、あるいは私自身の小説作法、それと松本清張との比較などなど、いわば各巻の作品を離れて語る部分を多くすることに心を配り、各巻の作品を読んでいない読者にも、メッセージが送れるようにと、一通りの工夫をほどこした。(「はじめに」)
私が熱心に清張作品を読むようになったのはここ数年のことであり、既読の清張作品、とりわけ長篇は、思い出しても『点と線』『渡された場面』『砂の器など数えるほどしかない。したがって「各巻の作品を読んでいない読者」に該当する。しかしながら、そういう立場だからこそ熱心に読むことができず、ある部分は流して読まざるを得なかった。読みながらまことに複雑な気持ちになる本だったのである。
それはこういうことだ。作品解説という本分があるゆえ、ある程度作品のあらすじに触れている。これを読んでしまうと、未読の清張作品を読むときの楽しみが半減する恐れがある。といいながら、読んだら忘れる性分なので、この程度の紹介であれば読んでしまっても後に影響を与えることはないだろう。そもそも書かれている内容は非常に興味をそそられるものばかりで、丁寧に読みたくて仕方がないのだ。しかしそんな面白い内容ゆえに普通は忘れるはずが逆に頭に残ってしまいかねず、だとすればやはり未読の作品に触れられた部分は流したほうが得策だ、云々。
松本清張論として見た場合、本書の特色は、実作者、しかも同じような分野の作家によるものという点にある。阿刀田さんもこのことは強く意識しており、前記引用部分にも「私自身の小説作法、それと松本清張との比較」に意を払ったむね書かれている。
つまり清張作品を読み、彼の着想の源となったとおぼしき事柄にあたりをつけ、そこからどのように肉付けをして一篇の小説に仕上げていったのかという創作の過程を推理してゆくのだ。本書でもこの言葉は何度か出てきたが、いわば「清張工房」の内側をのぞき見るという意図に貫かれているのである。この工房における創作過程の推理が楽屋話めいて何とも面白い。同じ職業の人間でなければできない仕事である。
また本書中の「映像化の王者」という一章には、清張作品の映画化リスト・テレビドラマ化リストが一覧表になっており、ファンにはこたえられない。これを見ると、1997年11月までに映画35本、テレビドラマ168本が制作されている。
さらに別の章では「編集者の見た松本清張像」という鼎談が解説にかえられ、阿刀田さんと文藝春秋の元担当者藤井康栄さん・中央公論社の元担当者宮田毬栄さんが松本清張の実像を話されている。
藤井さんは小倉にある松本清張記念館の館長で松本清張の残像』*2(文春新書、旧読前読後2002/12/30条参照)の著書もある。驚いたのはこの藤井さんと宮田さんは姉妹だということ。姉妹で別々の出版社に勤務し、同じ松本清張の担当者。松本清張という作家を語るに最適のペアだろう。
阿刀田さんは清張作品について次のような賛辞を贈る。まったく異論はなく、実際私はいま清張作品をこのように読んでいるのである。
私は清張文学のなかに世の中を映す鮮明な鏡を、しばしば発見し、おおいなる拍手を送る者なのである。(97頁)