植物生活は思索の源

ボタニカル・ライフ

木や花を育て上げる営為、今風に言えばガーデニングを、「園芸」と「芸」を付けて呼ぶのはなぜだろう。たんに水や肥料をやって育てればいいというものではない。さまざまな色の花を咲かせ実を実らせ、また各種の植物を限られた空間に配置する、そんな技術は一種の芸と見なされていたのだろうか。
川添登さんによれば、江戸時代は大名屋敷から旗本侍はむろん、一般庶民に至るまで植木や草花を栽培することが流行し、町には植木売り、盆栽売り、花売り、苗売りの声が飛び交って、江戸の町はさながら“庭園モザイック都市”だったという(『東京の原風景―都市と田園の交流』ちくま学芸文庫*1)。
東京とりわけ下町はこの江戸の気風をいまだに濃厚に受け継いでいるように思う。東京で町歩きをして気づくのは、玄関先の道ばたに鉢植えをたくさん並べて草花を育てることを楽しむ家が多いこと。植木や花を植えるべき庭を持たないために玄関先で育てなければならない。現在ではその空間はベランダが担っているだろう。
先に園芸=ガーデニングと言ったが、いとうせいこうさんに言わせればベランダ園芸の場合これをガーデナーと呼ぶのは矛盾であり、自身ベランダで植物を育てるいとうさんは「ベランダー」を自称する。しかも両者は、たんに育てる場所が庭とベランダで違うだけではないらしい。
文庫新刊『ボタニカル・ライフ―植物生活』*2新潮文庫)のなかで、ガーデニングに対し「ブロックをオシャレに積んだり、素敵な大鉢から花が咲きこぼれていたり」(251頁)と、何となく敵意むきだしでとげとげしい。ベランダーこそが江戸の長屋園芸直系の営みなのである。
とはいえベランダー必ずしも盆栽とは直結しないらしいのも複雑だ。野梅の鉢を眺めながら思わず樹型を直すため剪定バサミをふるいそうになって直前で踏みとどまったいきさつを記した「盆栽ぎりぎり」という一文のなかで、ベランダー的ボタニカル・ライフと盆栽との間に経済原理を設定し、植物にかけるお金を月二千円までと厳しく自らを律している。盆栽は金持ちの趣味ということなのだろう。
それにしてもこの本は面白い。さすが講談社エッセイ賞受賞作である(文庫版は単行本刊行以後の1年3ヶ月分を増補)。水草を育てたいがために金魚鉢を購入したら、そこに金魚を入れたくなって金魚飼育を始め、まめに世話をするようになってしまった挙げ句「最初は水草が欲しかっただけなのだ」とつぶやく姿に笑いを誘われ、さらにメダカまで買い始め、増殖しすぎた子メダカを今度は偶然水草のなかに発見したヤゴの餌にしてトンボに育てることを楽しんだり、ボタニカルがボタニカルでなくなってゆく様子はドラマチックですらある。
植物と動物といえば、鉢植えを育てながら考えは動物と植物の死生観に及び、植物の死に際会して植物の死とはどの時点を言うのかという、人間で言えば「脳死」の問題へと達する。
さらにはベランダに咲き誇る花を見て宗教(神)の発生という哲学的思索に耽り、ヤゴからせっかくトンボになったのに飛べぬまま死を迎えた姿を見て生命の神秘、自然の摂理を考える。
解説の松岡和子さんは本書の面白さのゆえんを「鋭利な観察力に裏付けられた、植物に対する鮮やかでユーモラスな「見立て」が意表を突くからだ」と喝破する。部屋にある植物があるときは新入社員になり、軍隊になり、野球チームになる。アナロジー、レトリックを駆使したこれらの「見立て」、いとうさんの表現力に脱帽した。
植物を育てることは、かくも人間の生活に彩りを添えるものなのか。