記憶の純化法

脇役列伝

  • 脇役列伝〜脇役で輝いた名優たち〜@新文芸坐
「ポルノの女王 にっぽんSEX旅行」(1973年、東映
監督中島貞夫/脚本金子武郎中島信昭/クリスチナ・リンドバーグ荒木一郎/下馬二五七/関睦夫/粟津號/水城マコ/川谷拓三/片桐竜次
「白い指の戯れ」(1972年、日活)
監督村川透/脚本村川透神代辰巳荒木一郎伊佐山ひろ子/谷本一/石堂洋子/五条博/粟津號/木島一郎

ついに今日から、池袋新文芸坐にて、鹿島茂さんの『甦る 昭和脇役名画館』*1講談社)の刊行にちなんだ特集「脇役列伝」が始まった。初日の今日は、同書第一回で取り上げられた荒木一郎出演の2本。奇しくも同じ今日からラピュタ阿佐ヶ谷でも、「役者 荒木一郎の魅力」というレイトショーも催されるとあってか、21日の朝日新聞朝刊文化欄にこの二つの「脇役特集」を取り上げた記事が出た。
この特集の編成には鹿島さんご自身も直接かかわっておられるらしい。館内にはこの朝日の記事のほか、東京新聞に自ら寄せたエッセイのコピーも掲示してあった。そうした宣伝効果もあってか、「そんなに入るまいから、時間ギリギリでも大丈夫だろう」というわたしの楽観的見通しをはるかに上回る人出で、館内は熱気に包まれていた。去年11月に新文芸坐川島雄三監督の代表作2本(「幕末太陽傳」「洲崎パラダイス・赤信号」)を観たときより人が入っていたのではあるまいか。
さて今日の二本はいずれも成人映画(R-18)指定。東映ポルノはもとより、いわゆる「日活ロマンポルノ」を映画館で観たのは初めてかもしれない。「映画館で」などともったいぶっているが、ひょっとしたら昔テレビなどで観たことがあるかもしれないからだ。
朝イチの「ポルノの女王 にっぽんSEX旅行」(以下「ポルノの女王」と略す)は、鹿島さんが前掲書で取り上げたなかでも大絶賛していることで印象深い作品だ。

口にするのさえ恥ずかしいタイトルとは裏腹に、この作品は、わが生涯の純愛映画ベスト・スリーに入れてもおかしくない「異形の愛」の傑作である。私は、これを封切りで見たとき、不覚にもラストで涙をこぼしたことを覚えている。それくらいに切ない男の純情を謳い上げた純愛映画なのだ。(37頁)
さらに鹿島さんは、荒木一郎の映画を一本だけといったら、私は躊躇することなくこの作品を選ぶ、それくらいに『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』の荒木一郎は素晴らしいのである」(40頁)と書く。
こうした鹿島さんの紹介をあらかじめ頭に入れ、期待しすぎたゆえか、たしかに純愛映画として素晴らしい出来であることは認めるものの、涙が出るまでの感動はおぼえなかった。主演のクリスチナ・リンドバーグという女優は、鹿島書によれば「スウェーデン・ポルノの女王」と呼ばれ、東映が彼女を招いて作ったのが本作品だという。外国のポルノ女優を招いて作るという経緯が面白いが、その成果がこのようなポルノらしくない作品であることも興味深い。彼女はあどけなさを残したような童顔で、それで大胆な濡れ場を演じるのだから、ポルノファン、いや男はたまらないのだろう。
あとで触れる鹿島さんのトークショーで語られていたが、今回の特集で上映される作品はほとんどビデオ・DVDなどソフト化されておらず、映画館でしか観ることのできないものとなっている。映画館でといっても、頻繁に上映されるものではないから、今回の特集を見逃すと、あといつ観ることができるかというレアな作品群なのだ。なかでも「ポルノの女王」は稀な機会なのかもしれない*2
ということを踏まえ、観る前に鹿島さんの本で予習し、観終えたあとあらためて読み返すと、なかなか面白いことがわかる。鹿島さんは同書のまえがきにあたる「開館の辞」のなかで、脇役の第三人格について、30年近く経過したいまでもなお鮮烈な姿で記憶に残っているとし、「それは、時を経るに従って、まるで時間によって純化したかのようにクリアーな映像に変化している」と言う。
この文章も念頭に入れれば、ひょっとしたら鹿島さんは、30年以上前に「ポルノの女王」を封切りで見た記憶のみを頼りに、第一回荒木一郎編を書いたのではあるまいかと邪推するのである。ビデオ化されていないのだから、その可能性は高いはずだ。少なくとも執筆直前に確認のため映画を観たということはないだろう。
なぜこんなことを書くかといえば、鹿島さんが本書のなかで触れている「ポルノの女王」のあらすじのなかに、少なからず不正確な点が見いだせるからなのである。それも読み手の印象に強く残る部分ばかり。具体的にどこがどうと書くと煩雑になるので書かないけれど、ゆえに本書が誤謬だらけと指摘したいわけではない。
荒木一郎の第三人格の集大成を「ポルノの女王」に見いだし、いっぽうでまた「最高の純愛映画」という印象のまま30年という時間を経過して純化された、その純化のされ方が、実際の映画と本書の記述を付き合わせると如実に示されることに、ある種の感動をおぼえたのである。記述の誤差は純化の度合いを示すのであり、それこそが鹿島さんの本のチャーム・ポイントなのだ、と。
もう一本の「白い指の戯れ」は、村川透監督・主演伊佐山ひろ子のデビュー作で、年長の映友によれば、伊佐山がこの作品で『キネマ旬報』の主演女優賞を獲ったことで波紋が起こったといういわくつきの作品のようだ。ロマンポルノで活躍していた初期の伊佐山さんは知らないものの、物心ついた頃には「美人じゃないけれど存在感がある女優」として記憶にある人である。このデビュー作を観ても、やはり美女ではないのだが、その独特な雰囲気に加え、「ポルノの女王」とは対照的にクールな荒木一郎に心も体も捧げようとする表情や仕草に、強く惹かれてしまうのだった。
一般に、俳優としての荒木一郎というと、『白い指の戯れ』の拓のような、内面をほとんどのぞかせないハードボイルドな役柄を評価する向きが多いが、それは、このモグラ荒木一郎(「ポルノの女王」に代表される荒木の脇役第三人格―引用者注)と合わせて表裏一体としないと、上っ面をかいなでた理解にとどまる。(40頁)
以上のように、この特集では、「表裏一体」として俳優荒木一郎の全体像を理解することができる2作品が巧妙にセレクトされているのである。
朝イチから「ポルノの女王」「白い指の戯れ」二本が上映されたのち、鹿島さんのトークショーがあった。鹿島さんは30分間、ひとりで脇役映画の魅力、プログラム・ピクチャーの魅力について滔々と喋りつづけた。開口一番、「映画は映画館で観ないとだめだ。ビデオやDVDなどで一人で観てもつまらない」とする。映画は「集団的な夢」であり、集団的意識もしくは無意識であるという持論がそこに接続する。熱気ムンムンの映画館で、そこにいる人すべてがひとつのスクリーンに集中して映画を観る、そこに集団的意識がめばえ、映画の記憶が残るのだ。映画を映画館で観ることは、反「引きこもり」であって、社会と自らのつながりを再確認する行為であると主張されている。
最近HDDレコーダーを使ってテレビで映画を観ることも多くなっているけれど、この鹿島さんのお話にまったく同感である。阿奈井文彦さんの『名画座時代』でも同様の主張が見られたが、やはり映画は映画館で観てこそ、その映画への記憶は強烈なものとして残り、「純化」の度合いも異なるのではないかと思わずにはおれない。
その意味で、このところ集中してテレビで観ていた「人間の條件」も、映画館のなかで、他者と一緒に、熱気に包まれながら観ていれば、自ずと印象も別になるだろうし、未来に残るこの映画の記憶も違うものとなったのではないかと考える。

*1:ISBN:4062131374

*2:もっとも7月にはラピュタ阿佐ヶ谷でも上映される。