どこで見ても映画は愉しい

映画館と観客の文化史

映画をよく観るようになると(といっても古い日本映画ばかりだが)、自然に映画を観る空間のことについて考えを及ぼすことにもなった。簡単に言えば、“自宅で観るか、映画館で観るか”というテーマだ。
自宅といっても、ケーブルテレビとHDD/DVDレコーダーによりソフトを蓄積する環境はだいぶ充実した反面、肝心の観る装置自体はいまだブラウン管だから、いわゆる「ホームシアター」という環境にはほど遠い。
鹿島茂さんは映画は映画館で観るべきと主張するが、これは肯ける意見である。同じ映画を観ている人たちで形成される共同体のなかに身を置き、ともに笑い、泣くことは快感ですらある。とはいえわたしは、「うる星やつら」面堂終太郎の「暗いよ狭いよ怖いよ〜」という暗所閉所恐怖症とまではいかないものの、それに近い精神的持病に苦しんでいるため*1、映画館という空間は基本的に苦手である。このところ頻繁に映画館に通うようになったおかげで、だいぶ慣れてきたものの、いまだ当今の大音響映画(の予告編)に接すると息苦しくなる。
映像出力環境が悪いが手軽に観ることができる自宅か、苦手な空間だが共同体的体験が愉しい映画館か、それぞれ自分にとって一長一短があり、天秤にかけてもなかなか甲乙つけがたい。最近では酒を呑んで酔いながら観たり、子供たちによる騒音に耐えて観るなど、自宅で映画を観るときにはずいぶん集中力を欠いた状態になることが多い。そんな障害(酒は障害ではないか)をはねのけて観続ける根気がついてきたのが良いのか悪いのか。それを考えれば、やはり映画館に軍配を上げざるを得ない。東京は旧作日本映画を映画館で観ることができる条件に恵まれているから、そんなことも言えるわけだ。
加藤幹郎さんの新著『映画館と観客の文化史』*2中公新書)は、そんなわたしの問題意識のツボをつくテーマだったから、すぐ飛びついた。本書は作家論・作品論による映画の歴史とは一線を画し、映画(映像作品)というものはどこで、どのようにして観られてきたのかという問題を、その発生期の装置まで遡り、現代のシネマコンプレックスまでを視野に入れて論じる清新な内容である。そのなかから、映画100年、人間がどのようにして映画を観てきたのか、観客側・興行側それぞれの側面から多様な実態を提示することで、「映画」という言葉から想像される鑑賞方法の絶対性をはぎ取り、映画の本質に迫ろうとする意欲がみなぎる。
読み始めたときは、「いったい最後まで読み通すことができるだろうか」と危ぶんだ。序論「理論的予備考察」の部分が、タイトルどおりすこぶる「理論的」で学術用語にあふれ、わかりにくかったからだ。蓮実重彦さんといい、映画学者の文章はかくもまわりくどく高尚でなければならないのかと、思わず書棚の蓮実さんの本をめくり返したほど。
しかしながら第1部「アメリカ篇」に入り、多様な映画鑑賞装置と映画館のあり方の具体的考察へと読み進めていくにつれ、その理論性が薄まったので安堵した。アメリカで生み出されたさまざまな映画鑑賞装置を知るにつけ、映画館という空間は、時代やその地域の文化との関わりから説き起こさなければならないということがよくわかる。
先にも書いたように、本書を読むと、映画を観るということから想定される、暗い閉鎖的な空間で静かに集中して観るという一般的通念が、絶対的なものでないことを思い知らされる。

つまり映画とは映画館(ないし暗闇)のなかで不特定多数の観客とともに見るものであるという主張は、映画史の最初期から今日にかけて、おりおりの段階で根拠薄弱になるのである。(53頁)
こうした興行形態(映画と映画の間にスライドが上映され、ピアノの伴奏で観客が合唱する―引用者注)を見ると、サイレント映画の上映空間が、その言葉とはうらはらに全体としてかならずしも「静かサイレント」ではなかったことがわかる。(78頁)
映画館にいるあいだじゅう、物音を立てずただひたすら押し黙って映画に集中する。そんな風景はきわめて空間も時間も限定された状況で成立するにすぎない。
映画館での私語は気になる、迷惑である。私語だけでなく、コンビニの袋が立てる音も耳障りだ。小心者だから注意できず我慢しているのだが、時々これに対して他の観客がひどく乱暴な言い方で注意をする場面に出くわすことがある。そんなひどい言い方で言わなくとも、もっとやんわりと注意できないものかと、今度はそちらの暴言に不愉快な気分になり、興が殺がれてしまうことがある。旧作日本映画を観る空間は意外に紳士的でない。
本書でも、第2部「日本篇」中で、試写室で著者が遭遇した体験が紹介されている。上映開始直後鼾をかいて眠りだした地元新聞記者に対し、別の新聞記者とおぼしき男が「起きてください!」と叫び、さらに席を立って眠っている男の肩を揺さぶり、起こしたという話。ここから加藤さんは、映画館で求められる静粛性の歴史性や、映画館で同じ映画を観る人間に対する寛容(慎み)について考えを及ぼしている。映画を観るという行為の相対性に、きわめて明瞭なかたちで切り込む好例だと言えよう。
このあいだ読んだ永嶺重敏さんの『怪盗ジゴマと活動写真の時代』*3新潮新書、→7/12条)では、輸入映画「怪盗ジゴマ」が大流行した東京を「映画都市」と規定してこれを論じていた。「映画都市」という枠組みがとても新鮮で魅力的だったが、そのさい依拠されたのが加藤幹郎さんの議論であることを参考文献一覧で知って以来、興味を持っていた。本書第2部「日本篇」では、戦後京都を例にとって映画都市論が展開されているが、これが永嶺さんの議論のもとになったらしい。今後映画都市論がどのような深化を見せるのか、注目せずにはいられない。
さて冒頭の疑問に立ち戻ろう。映画は自宅で観るか、映画館で観るか。本書の帯の背の部分には、「どこで見ても映画は愉しい」という惹句が掲げられている。なあんだということになるが、結局はこれに尽きるのではないか。愉しい映画は場所を選ばないのである。ただ、どこであれ愉しい映画を観た場所の記憶は、その後の人生に彩りをもたらすことも知っておくべきだろう。

*1:うる星やつら」をリアルタイムで楽しんでいた中学生頃、まさか自分がそんな症状に罹るとは思いもよらなかった。

*2:ISBN:4121018540

*3:ISBN:4106101726