木村荘八の挿絵本

木村荘八挿絵本

永井荷風『墨東綺譚』。もちろん小説としてのできばえには文句のつけようがないけれど、本を手に取って文字を追うときのあの心地よさは、木村荘八の手になる挿絵の力にあずかるところ大だ。繰り返しページを開きたくなるのもあの挿絵のおかげだし、すでに岩波文庫*1をもっているのに、角川文庫の新装版*2まで買ってしまったのも、挿絵がきちんと入っているのが嬉しかったからにほかならない。
全集という容れ物に収められた作品は、その作家の書いたテキストが主眼だから、当然挿絵は入らない。全集で『墨東綺譚』を読むのは、福神漬ラッキョウなしでカレーライスを食べるようなものだ。いや、『墨東綺譚』をカレーにたとえるのは失礼か。それに木村荘八の挿絵はカレーにおける福神漬より大事に思えるので、こう言いかえよう。大のビール好きがノンアルコールビールを飲むことを余儀なくされたようなものである。
『墨東綺譚』挿絵の原画は、以前展覧会などで何度か直接目にしたことがある。あの頃は修正液でなく胡粉なのだろうか、ホワイトによる修正の痕跡が目立つ、なまなましいものだった。原画を見るのは得がたい体験だが、あの絵は印刷物で味わうのにしくはない。憧れの女優に直接会ったら肌荒れがひどくて興醒めした、そんな感覚か。
作品と挿画が一体となった『墨東綺譚』の世界に触れたおかげで、木村荘八の挿絵のある小説が気にかかってきた。横浜の大佛次郎記念館を訪れたとき、彼の長篇『霧笛』『幻燈』が木村画伯の挿絵で連載されたことを知り、挿絵入の単行本がほしくなった(→2005/5/3条)。さいわい去年未知谷から、大佛次郎セレクションの一冊として挿絵入の『霧笛』が刊行されたので*3、手もとに置くことがかなった。
いまこれを書きながら、5年前の大佛次郎記念館訪問の文章が含まれる2005年5月の記事を読み返していたら、谷崎潤一郎武州公秘話』*4(中公文庫)もまた木村荘八挿絵であると書いているではないか(→2005/5/25条)。そんなことはすっかり忘れていた。
先日立ち寄った古本屋で、徳田秋声『爛』の、輸送函をともなう二重函入りの立派な本を見つけた。東峰出版という見慣れない版元から出たものだ。中を見てみると、これがまた木村荘八の挿絵が入った版だった。『爛』が連載時木村荘八挿絵だったことは、映画「爛」の感想を書いたとき、書友かぐら川さんに教えていただいたから(→1/24条)、この偶然は嬉しい。
さてその本自体は元版ではない。秋声没後20年を経て出されたものであり、子息徳田一穂氏による年譜と解説、川端康成の跋が付き、1200部限定版とある。395番と朱筆でロットナンバーが書き入れられている。テキストは正字旧かな(罫囲み)、挿絵は本文と別刷で挿入され、巻頭には木村画伯作の色刷り版画が配されている。
売値は3000円したので、手にしてしばらく迷った。前記のように若尾文子主演の映画を観て、「爛」の世界がいかなるものか知ったうえ、岩波文庫版に久しぶりに再会していた。いつか原作をきちんと読んでみよう。そんな気持ちだったのである。そこにこの豪華版との出会い。今回は衝動的に買うことはしなかった。時間をおいて、次にその店を訪れたとき、ふたたび手にとって眺め、結局買うことに決したのだった。
買うことを決めたのには、いまひとつ理由がある。引越の荷ほどきで、木村荘八の随筆集『新編東京繁昌記』*5岩波文庫)をちょうど見つけたこと。さっそくぱらぱらめくってみると、あの線描が特徴的な、風俗画というか、都市画というか、いかにも木村荘八的世界が広がる挿絵がたくさん入っており、しばらくうっとりと眺め入ってしまった。木村荘八の絵は、失われた東京の空気が実感として感じられるのみならず、音や匂いまでもが伝わってくるようである。
『新編東京繁昌記』には、「『墨東綺譚』挿絵余談」と副題のある「墨東雑話」というエッセイが収められている。『墨東綺譚』の挿絵をめぐる裏話といった内容のものだ。挿絵を依頼されたときすでに原稿が揃っていたことからくる重圧や、実地を取材してまわり、小説の世界を描いたことの楽しさを軽い筆致で綴った好篇である。このなかに挿絵画家心得として、こんなことが書いてある。

予て私は挿絵は本文に対する、浄瑠璃節の太夫の絃の関係でなければならないと思っていますので、出来るならば太夫より以上といってもいいほどに絃の挿絵師はテキストに通暁しなければなりません。
ふつうの連載小説の挿絵であれば、テキストができてから印刷に付されるまであまり時間がなく、挿絵画家が想を練る時間は限定される。「テキストに通暁」する余裕がない。ところが『墨東綺譚』の場合すでに全篇の原稿があるのだから、挿絵画家としてはテキストに通暁する時間がたっぷり与えられている。挿絵画家としての腕が試されるわけである。
そのような立場に立った荘八がいかに重圧を克服して、あの見事な「太夫と絃」の関係をつくりあげたのか。そんな経験談が語られている「墨東雑話」を読むと、もう木村荘八挿絵本たる『爛』を手もとにおかないわけにはいかなくなったのであった。