本厄の荷風

永井荷風のシングル・シンプルライフ

正岡子規脊椎カリエスで苦しんだすえに息絶えた34歳、芥川龍之介睡眠薬(青酸カリ説もあり)を飲んで自殺した35歳はとうに越え、太宰治玉川上水に入水して果てた38歳は意識せぬまま通り過ぎていた。そうしているうち、三島由紀夫陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入して割腹自殺を遂げた45歳に近づいていることに気づき、慄然とする(以上すべて満年齢)。
先日観た世田谷文学館永井荷風のシングル・シンプルライフ」展の図録を眺めていたら、『断腸亭日乗』が荷風満38歳の年(大正6年)に起筆されていたことを知り、これまた慄然とした。と同時に、それではいまのわたしと同じ年齢、すなわち満41歳になる年、数え42歳の本厄の年に、荷風はどんな暮しをしていたのだろうという興味が沸きあがってきたのである。さっそく『断腸亭日乗大正9年(1920)一年間の日記を読んでみることにする。
まず特記しなければならないのは、この年5月、荷風は築地の住まいから麻布市兵衛町に建てた「偏奇館」に転居し、本格的な「シングル・シンプルライフ」を開始したということである。
すでに前年から建築工事は始まっており、正月8日、「大工銀次郎を伴ひ麻布普請場に往く」と年明け最初の現場視察を行なっている。このときの外出がたたったのか、12日、「夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし」と床に伏した。1918年から翌19年にかけ、世界的なスペインかぜ(インフルエンザ)大流行があったが、「目下流行の感冒」とはそれと関係があるのだろうか。
13日には体温40度に及ぶ。かかりつけの医師の来診や知人の看護を受けながらも一向に熱が下がる気配なく、幾日も床に伏せったすえ、22日にようやく全快の感触を得た。「目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり」とあるのはいかにも大げさなようだが、実は高熱にうなされていた19日、「病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ」と書くほど、死の恐怖と隣り合っていたのである。
4月7日、神田仏蘭西書院で洋書数冊を購った荷風は、帰途「電車雑沓して乗り得ず。須田町に出で柳原を歩み両国を過ぎて家に帰る」と、神田から築地まで歩いて帰宅している。当時の人としては当たり前のようではあるが、先日銀座から小川町まで歩いてへとへとになった同い年の身としては、わが身の軟弱なることを情けなく思わずにはいられない。
5月上旬、数日間悪天候が続いた結果、日本各地で水害の被害が報告された。これに対する荷風の毒づき方は、いかにもという近代文明批判である。

新聞紙例によりて国内諸河の出水鉄道の不通を報ず。四五日降りつゞけば忽交通機関に故障を生ずること、江戸時代の川留に異ならず。当世の人類に労働問題普通選挙の事を云々すれども、一人として道路治水の急務を説くものなし。破障子も張替へずして、家政を口にするハイカラの細君に似たりと謂ふべし。(5月9日)
5月23日に偏奇館に引っ越した荷風だが、すぐその翌日から痔疾に悩まされる。引っ越しのため立ち働いていたからだろうと、病院に行って帰宅後そのまま伏してしまった。「平生百病断えざるの身、更に又この病を得たり」(5月26日)と愚痴を書きつけずにはいられない。
痔の様子を見ながら、家具や蔵書を整理したり、門外を通った苗売りから庭に植える花々(夕顔・糸瓜・紅蜀葵)を買い求める。また、偏奇館転居を機に衣類を含め生活スタイルをことごとく洋風にしたことで「起臥軽便にして又漫歩するに好し」と、カメラを携えて牛込逢坂まで散歩に出かけ、坂上に旗本の長屋門が残っているのを「後日の参考にもと撮影」する(6月8日)。
寄る年波を痛感させられる出来事も起きた。
銀座松島屋にて老眼鏡を購ふ。荷風全集ポイント活字の校正細字のため甚しく視力を費したりと覚ゆ。余が先人の始めて老眼鏡を用ひられしも其年四十二三の時にて、余が茗渓の中学を卒業せし頃なるべし。余は今年四十二歳なるに妻子もなく、放蕩無頼われながら浅間しきかぎりなり。(7月27日)
とうとう荷風も老眼鏡のお世話になる年齢となった。父親も今の自分とちょうど同じ歳の頃老眼鏡をかけ始めたことを思い出す。子供の自分は中学卒業の年頃だった。それにひきかえいまの自分はこの歳になっても妻子なく放蕩無頼、浅ましきかぎり…と嘆いてみせる荷風だが、麻布でのシングルライフを始めたばかりの身、字面ほどの寂寥感はない。
たとえば11月9日から13日、「執筆興なし。読書に日を消す」「虎の門金毘羅の縁日なり。草花を購ふ」「書篋の蓋の破れしをつくろひ、愛誦の唐詩を題す」「山茶花落ちて風漸く寒し。書架を整理す」「飯倉通にてセキセイ鸚哥を購ふ」のように、悠々自適ともとれるシングルライフを謳歌している様子が書き連ねられる。買い求めたセキセイ鸚哥は番いで14円もした。かつて大久保に住んでいた頃、九段坂の小鳥屋で買ったときは7、8円だったのに。物価の騰貴は鳥にまで及んでいるが、「人才の價は如何」と、恐らく物価騰貴に比して原稿料などが上がらない恨み節を書きつける。
かくして本厄の一年は過ぎてゆく。大晦日荷風「早朝より雪降る。除夜の鐘鳴る頃雪歇みて益々寒し。キユイラツソオ一盞を傾けて臥牀に入る」。雪の降る大晦日、除夜の鐘を聞きながらキュラソー(オレンジリキュール)の盃を傾け、ほろ酔い加減で寝床に入る。優雅な独身貴族である。
年頭、死を覚悟するほどの風邪を引き、また痔疾により病がちな身を歎き、さらに細かい字が見えなくなり老眼鏡を使い始める。荷風はこのように身体の変調を抱えながら41歳の一年を過ごした。わたしはまだ細かい字を見るときに違和感がないので、老眼鏡の必要を感じたことがない。ひょっとしてわが眼は老眼?と気づくときのイメージが沸かないのだけれど、きっと荷風が感じるような深い感慨を催すに違いない。
厄年などという迷信めいた俗習に対し、荷風のことだから素知らぬふりをしているのだろうと思っていたら、しっかり意識していたようなのでちょっぴり親しみがわいた。
貯蔵銀行一昨日より取付に遇ひ居る由。余銀座の支店に少しばかり貯金あれど、今更如何ともすべき道なければ、本年厄落しのつもりにて棄てゝ顧ず。(12月8日)
貯金を預けていた銀行が取り付け騒ぎを起こした。もはや取り戻せそうにない、厄年の厄落としのつもりで諦めることにしよう。こんな場面から厄年への意識がうかがえるなんて、いかにも荷風らしくて面白い。