文庫化された「ちょいカタメ」

志ん生の右手

矢野誠一さんの文庫新刊志ん生の右手―落語は物語を捨てられるか』*1河出文庫)を読み終えた。
本書はもともとこの文庫版の副題を書名として、矢野さんの麻布の先輩小沢昭一さんが主宰する新しい芸能研究室から出された本を文庫化したものである。パラパラめくった感じ固そうな雰囲気を持っていたので、電車本とすることをためらったのだけれど、さらにめくると、「落語とわたし」や「木曜日のメッセージ」といった、連作エッセイ風の軽めの文章が目に入ったので、読むことに決めた。
「落語とわたし」は文庫版で30頁足らず、「木曜日のメッセージ」は50頁あまりのそれぞれ長めの連作で、前者は報知新聞、後者は東京中日スポーツに連載されたものである。「木曜日のメッセージ」というのは、東京中日スポーツのコラム欄のシリーズタイトルなのか、この矢野さんの連載固有のタイトルなのかわからないながら、ちょっと戸板康二的なネーミングセンスを思い出させる。
さていま掲げた両者の文章はいずれも連作エッセイ好きを満足させてくれる内容のものであった。「落語とわたし」でふりかえられる少年時代の寄席との関わりの話など、得がたい味わいがある。
これらに惹かれ読み始めたわけだが、結局のところ本書を読んで印象的だったのは、副題、元版の書名にあるようなテーマの文章だった。本書に収められた矢野さんの文章の多くは、目立ってトーンが高く、肩ひじ張った体のもので、こう言って悪ければ端座してあらたまった文体で書かれている。前述の連作エッセイは本書ではむしろ異色の部類に属する。
元版「あとがき」には、小沢さんから「いろいろの雑誌に書いた、ちょいカタメの、あまり商売気のある本屋さんにはむかないもの」をまとめないかという勧めを受けて出されたとある。上であれこれ書いたけれど、結局本書の基調はこの小沢さんの言葉に尽きる。またこのような性格の本が文庫になったことを喜ばずにはいられない。
もとより矢野さんが書いた評伝は大好きだ。調べが行き届いて堅牢であり、かといってゴシップや根も葉もない噂をまったく無視するわけでもなく、対象との距離感も絶妙。本書には、そうした評伝のエッセンスが凝縮されたようなポルトレも多く収められている。たとえば「圓朝の時代」「圓朝春團治」「勇と馬樂」「マルセ太郎の藝」など。
これら評伝のある種の部分と共通する、いわば「学究肌」を感じさせる論文のような文章は読み応えがある。核心的なテーマが「落語は物語を捨てられるか」なのである。矢野さんは、落語における噺家の動きや、小道具を巧みに使っての話藝に対し、真っ向から否定するわけではないが、これらの藝の隆盛と対比させるように、落語が本来持っていた語りの藝としての性質を浮かび上がらせようとする。
その象徴が文庫版副題で元版書名であり、本書劈頭に収められた一文「落語は物語を捨てられるか」で取り上げられた、「湯屋番」の挿話である。永六輔構成の催しのとき、毒蝮三太夫柳家小三治が、落語ではタブーとなっている同じ噺(「湯屋番」)を続けて口演したことの革新性を論じ、「かつての落語が有していた、豊かな、いのちをかけた言葉の魔術」の復活を念じている。
本書のなかでこの主張は変奏して繰り返される。「落語とわたし」に収められた次の文章がもっともわかりやすいものだろうか。

もちろん、落語は「きく藝」であって「見る藝」ではないといってみても、落語という藝に、見せる要素のあることまでは否定できない。落語家の「しぐさ」や「表情」が、どんなに落語の世界を客に伝えるのに役立っているか、はかり知れない。扇子や手拭を小道具として「見せる」方法は、落語ならではのすぐれた様式といっていい。そうしたことのすべてを認めて、なお落語は究極「きく藝」であり、見せる要素は、落語家の語り口の補助手段でしかないのだ。(166頁)
文庫版の解説(談話)は柳家小三治さん。「湯屋番」連続口演の当事者である。当事者にとってこの〝事件〟はいかなるものであったか。聴衆の一人としてこの口演から感じたことを「落語は物語を捨てられるか」というテーマに結実させた矢野さんに対し、「実は…」と意外な裏話がそこで語られている。
「落語は物語を捨てられるか」という重いテーマに対するきわめて軽妙なオチがついて、本書は見事に完結したと言うべきである。