町の空気は保存できるか

文學界2007年4月号

小林信彦さんの新作長篇日本橋バビロン」読みたさに、掲載誌『文學界』四月号を買ってしまった。文芸誌を買うのは10年ぶり、あるいはそれ以上かもしれない。最近は書店で立ち読みはおろか、手に取ることすらなかった。
性分として「本」の形態で読むことを好むから、雑誌で読むのは身が入らない。ふつうなら単行本になるまで我慢するのだけれど、今回ばかりは内容に強く惹かれ、雑誌代950円で読めるのなら得だという打算が働いたのだった。読み終えたいま、単行本が出たらそれも買うつもりでいる。
本作品は、両国(現東日本橋)の和菓子屋の跡取りに生まれた小林さんが、祖父が生きた明治から父が死んだ戦後まで、祖父と父の肖像を中心に自らの一族の姿を描き出すいっぽうで、生まれた両国という町、そこを含む下町が都市東京のなかでいかなる存在であったのかという実感をも綴った長篇である。
跡取りとして生まれた和菓子屋と、家があった両国という町の空気、すでにこの点については、自伝的長篇『和菓子屋の息子―ある自伝的試み』*1新潮文庫、→旧読前読後2001/12/25条)があるし、そのほか『ぼくたちの好きな戦争』*2新潮文庫、→2003/5/28条)、『一少年の観た〈聖戦〉』(筑摩書房、→2004/2/28条)から近作の『東京少年』(新潮社、→2005/11/5条)まで、幾度となく触れられてきたものである。そのうえでまた類似の主題で長篇が書かれる意味がどこにあったのか。
後半の第四部「崩れる」以降で描かれる、父の病死と戦後の小林家(和菓子屋「立花屋」)の崩壊、叔父ら親戚たちが織りなす醜悪な人間模様については、上記作品群のなかでも言及を避けてきた、あるいは断片的にしか触れられてこなかった部分であると思われ、それらの人物に取り囲まれて父の死と家の崩壊を受け入れる小林信彦青年のまなざしに圧倒される思いで、憑かれたようにラストまで一気に読まされた。
小説的にはこの後半部分がとても面白いのだが、これと対照的に、明治から戦前までの両国という町のたたずまい、町の空気を丁寧に書きのこしておこうという気概に満ちた前半部分、これこそ本作品の売りではないかと思われる。
現在東京では、バブル期以上の都市再開発の波に襲われていると言われ、昭和初期に建てられた建築物が次々と解体の危機にさらされ、実際風情ある建物が解体され、跡地に巨大高層ビルが建てられている。これら昭和モダニズムの建築物に対して、専門家や地元の人びとによって保存運動が組織される例も少なくない。わたしもできれば保存してほしいと考える人間である。
いっぽうで東京駅や丸の内の三菱一号館など、歴史的建築物を復元しようという動きも目立つ。これもまた嬉しいニュースではある。
しかしながら、運動が成功して建物保存が決まったとしても、あるいはかつてのおもむきある建物が同じ場所に復元されたとしても、あくまで「個」にすぎず、新しいビルの群のなかに、ぽつんとあるだけにとどまる。それらの建物が、町という面を構成する一要素であった時代、その建物があった時代の町々が漂わせていた雰囲気、空気は、保存しようにもできないのである。
だから、あとに生まれたわたしたちがそれを知るには、その時代の空気を知っている人びとの証言を読むしかない。むろん東京の町にはそれぞれ特色があって、銀座ならこう、日本橋ならこうというような、最大公約数的な、客観性がともなうイメージはないわけではなかっただろう。しかしながら、つまるところ町の空気というものは主観の部類に属する。人によって異なるのだ。
子どもと大人によって同じ町でも当然イメージは異なろうし、社会的立場、たとえば職業などによっても違うだろう。下町の人間と山の手の人間によってもまったく別の容貌を呈するに違いない。一人の人がふりかえった町の記憶だけが、その町の全体像ではない。
建物は保存すれば残るし、復元もできるけれども、ある時代の町の空気というものは復元不可能、それについて書かれたたくさんの人の文章を読まなければわからない。ある時代の町の空気を書きのこしておくこと。ある意味建物の保存・復元よりも重要な仕事であるかもしれない。
たとえば本作品では次のような文章が印象に残った。

昭和七年に両国に生れた私は、両国橋を渡って東両国、本所方面へ行くのがこわかった。それは生れついてから叩き込まれた禁忌ではないような気がする。誰にも教えられなかったにもかかわらず、橋の向う側がこわかった。(21頁)
明治、大正から昭和の初め、いや敗戦のころまで、浅草の空気、肌合いは私に違和感を感じさせるものだったが、この〈違和感〉こそが浅草という町の〈売り〉でもあったのだ。(30頁)
丸の内へ行く感覚には独特なものがあった。(…)銀座も別格だが、丸の内のショウや映画は客層を選ぶものであった。(…)丸の内に連れて行かれるのは、子供心にもわくわくするものがあった。(73頁)
このほか、戦時中古本屋は貸本屋に転身し、乱歩や野村胡堂の小説などは売るより貸したほうがわりがいいので売らず、吉川英治の「宮本武蔵」などは金では貸さず米で貸したという挿話や、敗戦直後大学の受験勉強のため、いま迎賓館となっている国会図書館に勉強に行ったという話など、個人的に興味を惹かれる話はたくさんある。
後者の話からは映画「銀座カンカン娘」を思い出す。やはりあの映画は迎賓館でロケされていたのだ。高峰秀子笠置シヅ子が仔犬を散歩させていたとき、映画ロケ班につかまったあのシーン。当時は国会図書館なのだから、いまと違って市民が自由に出入りできたのだろう。貴重な映画なのである。
閑話休題。町の空気については、平行して読んでいた矢野誠一さんの『志ん生の右手―落語は物語を捨てられるか』*3河出文庫)にも同じように書きとどめられている。
当時の不良中学生には、なんとなく気取ったところの感じられた渋谷よりも、雑然とした空気のあふれていた新宿のほうが、はるかに魅惑的だったし、刺激も強かったのである。(「東京劇場散歩・新宿」)
その点、六本木という街には、いまのような姿に変わる前から、雑駁で、なんとなくうわついた空気がただよっていたように思う。もともと麻布の三連隊をひかえ、敗戦直後は占領軍の将校相手の怪しげなスーベニールショップや、まだ珍しかったコカ・コーラの看板なども目につく兵隊の街であった。雑駁でないわけがない。(「青山通り劇場新地図」)
ちなみに矢野さんは小林さんの三歳年少、山の手育ちである。
最近のわたしは、このような往事の東京の町々の空気を丁寧に書き記した文章にいたく惹かれる傾向にある。小林さんの最新作はことにそうした点を強く意識して書かれたことは明白である。これら証言を集めて、種村季弘編『東京百話』天地人三巻に続くようなアンソロジーをこしらえられないものだろうか。