豆腐マニア種村季弘

雨の日はソファで散歩

種村季弘さんが亡くなってはや一年が過ぎた。病床でみずから構成を考え、手を入れていたという遺著2冊が、没後一年という節目のこの時期に相次いで刊行された。『断片からの世界―美術稿集成』*1平凡社)および『雨の日はソファで散歩』*2筑摩書房)である。
前者は副題にあるように、美術エッセイや知己の芸術家たちの作品論などを収めたいくぶん堅めで浩瀚な本で、後者は同じ版元から出た『人生居候日記』『徘徊老人の夏』の系譜を引く酒と食と江戸の世界に遊んだ雑文集というおもむきの本である。まずは楽なほうからと後者を読んだ。
いま『雨の日はソファで散歩』を『人生居候日記』などの系譜を引くものと書いたが、それではこうした酒・食・江戸という三位一体の雑文集はいったいどこまで遡ることができるだろう。かの「漫遊記シリーズ」に淵源が求められそうだが、このシリーズは以前書いたように小説としての味わいを含ませ、切り揃えられた連作だから(→2004/10/5条)、雑文集とすべきでない。
『雨の日はソファで散歩』巻末に収められた、“種村季弘のウェブ・ラビリントス”齋藤靖朗さん作成にかかる著作目録を眺めながら考えてみると、『晴浴雨浴日記』(河出書房新社)あたりに突きあたった。そこから『箱抜けからくり綺譚』*3(同前)を経て、『人生居候日記』へと連なる系譜。
さらに著作目録に目をこらしてふりかえれば、わたしがリアルタイムで種村さんの新刊発売に立ち会ったのは、『箱抜けからくり綺譚』からであったことを思い出す。1989年8月に出された文芸時評集『小説万華鏡』(日本文芸社)から、1991年9月に出された『箱抜けからくり綺譚』までの2年間、種村さんの新著(既刊書の文庫化や翻訳を除く)がまったく発売されない空白期に、わたしは種村ファンとなった。このあたりの経緯については、去年亡くなられたおりに、自分の種村本への傾斜を振り返った「追憶のタネラムネラな日々」に詳しい(2004/9/4条2004/9/5条)。
「追憶のタネラムネラな日々」では、待ち焦がれた種村さんの新刊『箱抜けからくり綺譚』を入手した時期以前で日記の引用をやめている。同書を入手したのは、忘れもしない東京は八重洲ブックセンターで、その日(1991年9月30日)わたしは新潮社への入社試験のため日帰りで上京していたのだった。
さっそく帰りの新幹線車中で読み始め、翌々日に読み終えている。その日の日記にはこんな感想を書いた。

種村季弘『箱抜けからくり綺譚』読了。読書の楽しみを心底味わった。読み進めるのが勿体ないほどに。いつもながらの切れ味鋭いレトリックと、深い造詣に裏打ちされながらの俗物趣味(裏返しの高尚趣味といえようか)が冴えわたっている。種村さんのレトリックは読む者を眩暈に誘う難解さと、「ああ、そうだそうだ」という親和力とが表裏一体をなしていて、活字を逐う実感を味わわせてくれるから嬉しい。もちろん語られる人物、オブジェと相俟ってのことである。中でも大野弁吉、宮武外骨に興味を持つ。外骨の著作集を読んでみたくなった。
それ以来、わたしは種村さんの「俗物趣味」が光る雑文集のたぐいをこよなく愛読してきた。その系譜が今回の『雨の日はソファで散歩』で終止符を打つのかと思うと、とても寂しい気持ちになる。
さて本書の装幀はクラフト・エヴィング商會吉田篤弘・浩美お二人による。桑原茂夫さんの「あとがき」によれば、種村さんは生前クラフト・エヴィング商會に注目していたことから、担当編集者たる松田哲夫さんが推したのだという。
高麗隆彦さんの装幀に慣れた目で見ると、クラフト・エヴィング商會らしい瀟洒でシンプルなデザインにこぢんまりとタイトルがあしらわれた装幀に一瞬戸惑うけれども、すぐ「うむ、これもまたいいなあ」と納得しつつ、種村=クラフト・エヴィング商會の夢の組み合わせもこれ一冊きりかと残念な思いにとらわれる。
内容は、『箱抜けからくり綺譚』の感想と同じく、目くるめくレトリックに幻惑される思いだった。種村さんの書く酒の話、食べ物の話、温泉の話には妙なリアリティがある。いや、リアリティという語感とはちょっと違う。「質感」とでも言うべき重量感がまとわっている。行間から酒のにおいがぷーんと漂い、ぐつぐつと鍋で煮えたおでんや煮込みのにおいが鼻をつくような感覚。
食べ物の話ばかりではない。ポルトレ・文学エッセイでも、岡本綺堂岩本素白長谷川伸山田風太郎日影丈吉といった人物たちが何かしら立体的に見えてくる。
エピソード主義も相変らず冴えまくる。読み手が予想もしていない方面の文章をひょいと引っぱってきて、文章のなかに放り込む。そうすると一気に文章に彩りが増し、この本のこの部分をこの文脈につなげるかという芸にひたすら感嘆する。文明開化の明治における日本文化と西洋文明の奇妙な混淆を論った「文明開化とデカダンス」のなかで突如引用される宇佐美承『池袋モンパルナス』での一エピソードなどは、その最たるものだろう。
自伝的な聞き書きや、帯にある「死の予感を抱きつつ綴った文章には、絶妙な味わいがある」というたぐいの、死の予感が濃密にたちこめたエッセイ、書名の由来となった新宿・銀座という町への書斎散歩、触れたい文章はたくさんあるが、何より印象深いのは「豆腐」だ。
「とうふと洗濯」「幼時食への帰還」「幻の豆腐を思う」といった諸篇から、種村さんの豆腐への偏愛がひしひしと伝わり、白くて四角くてすぐくずれてしまうもろいあの食べ物の「質感」で、読むこちらも満腹感におそわれる。
『箱抜けからくり綺譚』を見ると、豆腐好き有名人のエピソードをつなげた「豆腐マニアの話―純粋偏食家銘々伝」という一文が目に入るし、ああそうだ、『食物漫遊記』にも豆腐の話があった(「狐の嫁入り愛宕下の豆腐」)。そのほか、吉行淳之介『贋食物誌』を引用した「どぜう地獄」も、主題は泥鰌だが豆腐が出てくる。種村さんが書き遺したおびただしい文章の山のなかから、「豆腐」にまつわるエッセイだけを編んでみるというのも面白いかもしれない。
その巻頭には、以前美濃瓢吾さんのご厚意で恵まれた『酔眼朦朧湯煙句集』のなかから、種村陶四郎(季弘)さんの豆腐にまつわる次の一句を持ってきたい。
雪 や 雪 湯 宿 湯 豆 腐 雪 見 酒