タネラムネラな日々・東京篇

種村季弘色紙

『雨の日はソファで散歩』*1筑摩書房)を読み、巻末の「種村季弘著作目録」に目を通していると、さまざまな記憶が去来し、しばらく追憶にひたってしまった。
仙台に住んでいた頃は、著作を読んで楽しむだけのファンだったが、思いがけず東京に住むことになり、そればかりかウェブサイトを開設するようになって、種村さんご本人との距離がぐんと縮まったのは予想だにしなかったことだった。
種村さんの謦咳に接したのは4度ある。最初が1999年10月、江戸東京博物館で開催された公開講座「江戸東京自由大学」だった。それまで著作を読んで憧れるだけだった種村さんのお話を直に聴く機会を得て、興奮の入り交じった感想をサイトにアップした。
種村季弘のウェブ・ラビリントス”の齋藤靖朗さんも同じ場にいらして、わたしの拙い感想に目をとめていただき、「じゃあ今度会いませんか」という話に進展したように記憶している。大学の教え子である齋藤さんの知己を得たことが、種村季弘という存在に対する距離感を革命的に変え、ウェブを通した人間関係構築の有効なることを知った。
2度目は2001年4月。赤坂のバーdesperaで開催された「種村季弘を囲む会」である。わたしのような素人のファンも寛容に迎えてくれるありがたい催しだった。小心者で照れ性ゆえ、直接種村さんと会話することはできなかったけれど、種村さんを中心としたインティメイトな空気にひたっているだけで幸福だった。しかも、そこにゲストとして矢川澄子さんもいらしたことは、いま思えばずいぶん貴重な「歴史的現場」に立ち会っていたのかもしれない。
種村・矢川の二人は、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』の共訳者である。『雨の日はソファで散歩』に収められた矢川さんの追悼談話「昭和のアリス」を読むと、種村さんが都立大に勤めていた時代、澁澤と別離したばかりの矢川さんが近くに住んでいて、毎日のように研究室を訪れ、澁澤とのことについて相談されたという。
しかし都立大を辞めてからだんだん疎遠になり、近年は「自著のやりとりの上で音信があるくらい」だったとある。とすれば、あの会でお二人が会ったのは、ともに最後の機会だったのかもしれない。談話で披露された二人の歴史の厚みを知り、穏やかな笑顔を見せながら仲良く並んで、ひと言ふた言会話を交わしていたお二人の姿を思い出すと、胸が熱くなった。
わたしはその会に色紙を持参していった。「これに何か書いてください」とお願いするには勇気がいった。隣に矢川さんがいらっしゃるのに、種村さんだけにお願いする非礼にさいなまれつつ、おずおずと色紙を差し出すと、種村さんは無言でさらさらと俳句を揮毫してくださった。

マ ス ク し て ド ラ キ ュ ラ の ゐ る 齒 科 医 院
この句が当夜の即興ではなく、旧作であることを知ったのは、昨日も触れた『酔眼朦朧湯煙句集』を入手してからのことである。句集では「ゐる」が「居る」と異同がある。現在この色紙は書棚の天板の上に飾っている。いずれ傷まぬうち、ちゃんと額装せねばと思う。
3度目は2002年5月。青山ブックセンター本店における筑摩書房牧野信一全集』刊行記念トークショー「不思議の国のマキノ」だ。種村さんと小森陽一さんの対談形式で牧野信一が熱く語られた(旧読前読後2002/5/21条→“Ç‘O“ÇŒã2002”N5ŒŽ)。
最後の4度目が昨年2004年5月、アテネ・フランセ文化センターにおける映画上映企画「種村季弘 綺想の映画館」での特別企画、川本三郎さんとの対談である。種村さんはその三ヶ月後に亡くなられるわけだが、そんな予感すら与えない、相変わらず変転自在引用魔術師の種村節に酔った。
このときの感想は「夢のような」と題して書いた(2004/5/18条)。お元気そうだとはいえ、重い病らしいという噂は聞いていたので、種村さんをナマで見るのはこれが最後かもしれない。その対談相手が、これまたわたしの好きな川本三郎さんという絶妙な組み合わせだとは。そんな喜びを、二人の話を聴きながら強く噛みしめていた。
だからそのとき「種村さんと川本さんの対談をじかに聴く機会があるなんて、夢にも思っていなかった。お二人の姿を見ながらジーンと胸が熱くなる」と書いたのは、けっして誇張ではない、率直で偽らざる心境なのである。
湯河原住まいの種村さんは、晩年東京に出てくる機会が少なくなっていたという。そのなかで6年間に4度もお目にかかることができたのは何と幸運だったか。こうやって記憶の糸をたぐり寄せることができたのも、こつこつとウェブに東京行動録を書きためていたからである。最近行動録の更新が滞り気味だが、こういったときのためにも、怠らずつづけていく必要があると痛感している。