男冥利に尽きる話

少女

どういう風の吹き回しだったか曖昧だが、昨年の夏頃、野口冨士男さんの(わたしでも買うことができる手頃な売値の)小説集をネット古書店で探したことがあった。昨年7月に生前最後の短篇集『しあわせ』*1講談社、→2004/7/21条)を読んでいるから、その影響だったろうか。
このとき幸い安価で手に入れることができたのが短篇集『少女』*2文藝春秋)で、このほど読み終えた。本書には「少女」「薬物の夜」「紙の箱」「他人の春」「返り花」「残花のなかを」「三田三丁目」「坂の履歴」の8篇の短篇が収められている。1984年発表の「返り花」から、89年の「坂の履歴」まで、いわば晩年集中的に書かれた短篇群である。
表題作の「少女」は、終戦直後一面識もない財閥令嬢を誘拐し連れ回した青年の話。当初身代金目的で誘拐したものの、幼さと女らしさのあわいにある小学6年生の少女と時間を過ごすうち、身代金はどうでもよくなり、少女にプラトニックな愛情を抱きはじめる。彼は鄙びた温泉地に逃避したが、結局捜査の手が及び、捕まってしまう。
わが身をおびやかす誘拐魔から解放され安堵するかと思いきや、連行される青年の背中に向かって少女は「お兄ちゃんを連れて行っちゃ、いや。あたしは、お兄ちゃんといつまでもいっしょにいたいの」と泣き叫ぶ。意外性のある少女の切々たる叫びが痛烈な余韻を残す佳品だ。
本書には、このように女性の側から想われ、慕われ、恋われるというシチュエーションの話が多い。前記「少女」は自らの体験とは隔絶しているだろうからおくとして、ほかはきわめて私小説の色彩が濃厚な作品ばかりだから、なぜ野口冨士男という人間はこうも女性を惹きつける魅力があるのか、同性として多少の嫉妬を感じないわけではない。
「薬物の夜」では、海外旅行ツアーの同行者の孫ほども若い女性が、夜、主人公の泊まるホテルの一室を訪れ、自分の身体を見てほしいと目の前で服を脱ぎ始める。「返り花」では、亡くなった旧友の愛人だという二十代の女性が主人公の前に姿をあらわし、彼をホテルに誘惑する。
この2篇は老境に入り、性的能力の衰えを自覚する男、つまり作者と等身大の男が主人公になっている。すべてが事実ではないかもしれないにせよ、ある程度実体験が下敷きになっていると思われる。これに加え、作者の若い頃を回想したまったくの私小説と呼べる作品にも、同様のモチーフを見つけることができる。
慶応普通部時代、学校の近くにあった喫茶店の女給から彼女の部屋に誘われ、訪れると「女って、年下の男の人を見ると、ハラハラしちまうの」と告白され、彼女の秘部を見せられた体験を書いた「三田三丁目」、神楽坂で芸者置屋を経営していた実母の家に寄寓していた時、そこで芸者をしていた女性の一人から、小待合に誘われ、濃密な一夜を過ごす「坂の履歴」(この題名がたまらなくいい)、いずれも少年は同年配の女性から誘惑され、性的な体験をする。
全体的に枯淡で緊密な文体であるにもかかわらず、女性を描写するとき、一転して湿り気を帯びる。細やかで執拗な筆づかいにより女性を舐めるように描きつくし、そこからエロティックな香気が立ちのぼる。作者の女性を見る視線が嫌らしいものでなく、逆に女性の気持ちをつかんでしまうのだろう。
「返り花」の主人公は、旧友の没後彼の作品集を編んだとき、彼の作品を徹底的に読み込み、登場する女性像を分析してモデルになった女性を絞り込む。多かれ少なかれ、現実的に作者と関わりをもった女性をモデルにしないはずがなく、作者の女性遍歴が土台になっていると考えるからで、旧友の元愛人の雰囲気が彼の作品中に微塵も見られないことから、本当に愛人だったのか、疑問を向ける。
「返り花」の主人公の目は作家の目と重なると考えていいだろう。それほどまでに分析的に女性を見る眼を持った野口さんによる一連の「受け身」小説は、花柳界のなかで少年期を過ごしたことと関係があるのだろうか。