橋本忍の世界へ

脚本家・橋本忍の世界

村井淳志さんの新書新刊『脚本家・橋本忍の世界』*1集英社新書)を読み終えた。わたしのような旧作日本映画初心者にとって、このうえないガイドブックであった。
著者は映画批評家でも映画研究者でもない。金沢大学教育学部教授で、社会科教育論を専門に研究されている方である。橋本忍脚本の映画に魅せられた素人の一ファンという立場がまず基本にある。
もちろんそれ以上に大事なのが著者の専門分野からの視点である。著者は社会科の教師を目指す学生を育成する立場にある。「社会科の授業と日本映画、いったいどちらが日本人の社会認識に影響を与えてきたのだろうか」という問いから出発し、「むしろ映画をもう一つの教育実践ととらえて、日本人の社会認識にどんな影響を与えたのか」という方法論から、社会性の強い橋本映画を俎上にのせる。自らの嗜好と研究実践の幸福な結合の結果生まれたのが本書なのだ。
主に取り上げられているのは、「七人の侍」「羅生門」「真昼の暗黒」「私は貝になりたい」「切腹」「白い巨塔」「日本のいちばん長い日」「八甲田山」「砂の器」の9本。いずれも有名な作品ばかりだが、初心者のわたしから言わせれば「え、この映画も橋本忍さんが書いたのか」と驚いたほど。
わたしのようにこれから旧作日本映画を観ていこうと思っている人間にとって、映画技法について専門的な議論ではないのがありがたいし、何しろ本書で採られている方法がユニークで知的刺激に満ちていた。
本書がユニークなのは、関係者に対するインタビューを随所にはさんでいることによる。ご健在である橋本さんご本人に対するインタビューはむろんのこと、戦後の大冤罪事件である「八海事件」を取り上げた「真昼の暗黒」の章では、冤罪で逮捕され収監された当事者にインタビューしている。
白い巨塔」の章では、国立浪速大学のモデルとされた大阪大学医学部の現役教授に(この人選は、映画関係者の発想にはないだろう)、「八甲田山」の章では、この事件に関する資料を収集研究している自衛隊の現役一尉に、「砂の器」の章ではハンセン病患者協議会の事務局長にそれぞれインタビューをすることで、映画の中身と、その映画が取り上げた時代相、映画が製作・上映された時期の社会との関係、映画が社会に与えた影響について明らかにしてゆく。
そのなかで、黒澤明小国英雄との共同脚本である黒澤の代表作「七人の侍」について、映画に描かれたエピソードの原型となった史料を読みながら、脚本の七割方は橋本の力によるものだったことを明らかにし、黒澤神話を客観的に捉えなおそうとする。
橋本脚本の良さに入れ込むあまり、逆に黒澤監督の力量を低く評価してしまうきらいがないとは言えない。でもここまでしないと、橋本忍という脚本家の存在が黒澤明という巨大な像の影に隠れたままになるというのも、わからないではない。
橋本さんの脚本流儀は、一度原作を読んだらあとは二度と読まない、原作の骨格は不要で「生き血」だけを必要とするというものだという。そうしてできあがった代表作が「砂の器」で、村井さんもこの映画を高く評価する。
ただそのあまり、対照的に原作を「あまりのつまらなさに愕然とする」「とにかく話がゴチャゴチャで、殺人方法はSFじみていて嘘臭いし、人物描写が類型的で押しつけがましい」(167頁)と手ひどく評価するのは、原作も映画と違った点で松本清張らしい社会派ミステリに仕上がっていると感じ、面白く読んだわたしとして(→2004/1/17条)は残念だった。まあ、殺人方法が「SFじみて」いるというのはたしかにそうで、そこが面白いと感じたのだから、たぶん議論は平行線だろう。
橋本忍さんの脚本といえば、ついこの間「首」を観たばかりだ(→8/13条)。本書でも「真昼の暗黒」の章で少し言及されている。「残念なことにビデオ化されていない」という記述から、著者はシナリオだけ読み映画はご覧になっていないのかもしれない。もし映画をご覧になったら、もう少し触れられる余地がある映画だろう。「ビデオ化されていない」などとあると、ついDVDに保存したくなってしまう。
私は貝になりたい」の章で展開される、映画のインパクトが強すぎたため、BC級戦犯の問題、ひいては戦犯裁判の問題の本質がずらされ、見えにくくなってしまったという指摘など、映画が日本社会に与えた影響という点からとても興味深いものだった。本書を読んで、ますます橋本忍脚本映画に対する興味が掻きたてられた。
以下、私が観たことのある橋本作品を、本書巻末の上映作品一覧から抜き出してみる。(〈 〉内は共同執筆者)

八甲田山」は親と映画館で観たような記憶がある。当時10歳。映画館でリアルタイムでなければ、数年後のテレビ放送で観たことになる。いずれにしても一番最初に観た橋本作品がこれだろう。
成瀬巳喜男監督の「鰯雲」「コタンの口笛」も橋本さんによることを初めて知り(というか認識し)、「日本のいちばん長い日」や「日本沈没」は以前「日本映画専門チャンネル」で流れていたのを録画しておかなかったことを悔やんだ。「張込み」をもう一度観たくなり、映画版「白い巨塔」をレンタルしてこようと決めた。
茺田研吾さんの『脇役本』*2(右文書院)と同じく、本書はしばらくのあいだ座右に置かれ、わたしの映画鑑賞のよきガイドブックになることは間違いない。