夫婦・家族の心の裏側

家族八景

わたしが筒井康隆さんの熱心な読者となったのは、『虚人たち』『虚航船団』『パプリカ』『残像に口紅を』『驚愕の曠野』といった実験的な傑作を次々と発表していた80年代末頃だから、初期のSF作家としての仕事はほとんど読んだことがない。
もっとも、先年徳間文庫に入った『筒井康隆自選短篇集』のシリーズ5冊はすべて購入し、何冊か読んでおり、そこで初期の短篇に触れたこともあった。その都度「昔から変わっていないのだなあ」(昔からこんな実験的で面白い作品を書いていたのだなあ)と感嘆していたのである。
子どもの頃、筒井さんの作品を原作とするテレビドラマ「七瀬ふたたび」がNHKで放映された当時のことを思い出す。調べてみると1979年だから、私は小学6年生だった。級友たちの一部が放映翌日このドラマの話をよくしていたものだった。わたしはこの輪に加わることができなかった。NHKのドラマといえば大河ドラマという歴史少年で、友人たちが話す内容から察せられるSF的、学園物的イメージが性に合わなかったのだ。
それ以来「七瀬物」は子ども向けのジュブナイルだとばかり思い込んでいたが、その認識はいまやあらためなければならない。その第一シリーズである家族八景*1新潮文庫)を読んだのである。
先日、『司馬遼太郎が考えたこと6』*2新潮文庫)を購入し、そこに直木賞選評が一篇しか収められていないことを書いた(→4/26条)。その選評で取り上げられていたのが、筒井康隆家族八景」、綱淵謙錠「斬」井上ひさし「手鎖心中」だった。これまでまったく意識になかった「家族八景」がはじめて脳裏に刻まれたのである。
その後ブックオフで本書を見つけ購った。見るとこれが「七瀬物」であることがわかり、上記のような経緯から、意外に思ったのである。
精神感応能力者テレパスである18歳の少女火田七瀬は、自らの特殊能力が他人に悟られるのを恐れ、身分を明かさずにすみ、他人と深く関わることがなく転々と居所を変えることのできる住み込み家政婦(お手伝いさん)として働いている。
物語は、お手伝いさんとして住み込んだ先の八つの家庭で七瀬が出会う、家族同士・夫婦同士の心の中の葛藤劇が連作短篇のかたちで展開する。七瀬は人と会話していると、相手の心の内が読めてしまう。表情や口に出てくる言葉と裏腹に、相手が自分に抱いている印象や自分を見る目が露骨に理解できてしまう。
表面上は平静を保っている親子や夫婦同士の心の中が実は荒んだものであるなど、人間の醜悪な面がこれでもかと読者に突きつけられる。わたしが思っていた「七瀬物」のイメージと大きく異なり、これはとびきりシリアスで恐ろしい小説だと居ずまいを正した。
先日年少の友人と飲んだとき、人間の表裏の話になり、ちょうど読んでいたこの小説を思い出した。表裏のない人間という表現は、その人に対する最大級の誉め言葉だと思う。人間として理想的なのかもしれないけれど、表裏がない人間なんて、存在しうるのか。誰だって話していることの裏に、また別の顔をもっているのではあるまいか。飲みながらそんな話になった。
ときどき、人と話していると、相手の表情から、(こいつはバカだなあ)(話し方がくどいなあ)(鈍感だなあ)と自分を思っているに違いないと感じることがある。何もわたしは精神感応能力者ではなく、常日頃抱いている被害者意識・コンプレックスのようなものが、表にあらわれる顔の変化に敏感に反応し、それをゆがめて想像しているだけかもしれない。
もし自分が精神感応能力者である場合、それがはっきりとわかってしまうのは辛いことだ。逆に、相手が七瀬のような精神感応能力者で、心の中をすっかり見透かされていたら…と想像すると、背筋が寒くなる。
ちなみに司馬遼太郎は『家族八景』を次のように評している。

筒井康隆氏の「家族八景」は家族という人間関係の機微を特殊な方法で描いた切れ味のいい作品だが、一般的に賞という、読んで骨身にこたえるような作品が気分として待たれがちなふんいきのなかにあっては、場ちがいであったかもしれない。(前掲書227頁)
わたしは上に書いたように、本書を読んでけっこう「骨身にこたえ」たのだが、エスパーというSF的仕掛けがそんなシリアスさを覆い隠してしまったのか。この評には少し不満が残る。
とはいえ、この選評を読まなければ『家族八景』という小説と出会うことはなかったわけで、一冊の本を読むことになるきっかけとはどこに転がっているかわからないものだなあと、ここでも「本読みの快楽」を味わったのだった。なお、解説は植草甚一さんで、植草さんの文庫解説なんて、珍しいのではあるまいか。