書巻の気のただよわせかた

雲のゆき来

森銑三の怪異小品集『物いふ小箱』が増補のうえ『新編 物いう小箱』として講談社文芸文庫に入った*1のは、近来の快事であった。…と書いているが、例のごとく読んでいるわけではない。筑摩書房から出た元版*2はかつて奥村書店銀座三丁目店で手に入れたものの、書棚を飾るにとどまっている。文庫版において、かなづかいを新かなにしたほか5編が増補されても、吉岡実さんの手にかかるシンプルな装幀が素敵なので、手放す気にはなれない。
これと同時に文芸文庫に入ったのが、中村真一郎の長編小説『雲のゆき来』*3である。この作品の存在は、こうして文庫に入るまでまったく知らなかった。『新編 物いう小箱』を買うつもりで、ついでに隣にあった本書をめくってみると、本の間からモクモクとわいてくる「書巻の気」に圧倒され、一緒に買うことにした。
本書は主人公たる「私」が、世田谷豪徳寺を訪れるシーンからはじまる。豪徳寺は桜の季節にわたしも一度訪れたことがある。主人公も豪徳寺にある名木「臥竜桜」を見に境内に入り、本作品の構想を得るのだった。
豪徳寺彦根藩主井伊家の菩提寺で、境内の墓所には井伊家歴代のお墓が並んでいる一角がある。主人公は、初代井伊直孝の側室にして二代目藩主の生母である春光院の弟で、日蓮宗の僧侶元政上人の事績を追う。元政上人はもと彦根藩の臣だった。青春時代は江戸で浮き名を流すほどの艶福家で、長じて出家、京都に隠棲し、晩年は漢詩をよくする文人として有名だった。
開巻劈頭は、あたかも森鴎外の史伝のように、元政上人の事績とそれを追いかける主人公の行動が淡々とした筆致で並行的に描かれる。史伝と異なるのはそれからで、友人から紹介された謎の国際的女優が登場し、文章も彩度を増す。ユダヤ人の父と中国人の母との間に産まれた彼女と一緒に京都旅行をして、しだいに心を通わせながら、「作られた幸福」に満ちた生活を送った元政上人とその生母との関係、反面「作られた不幸」を地でいった彼女の一生が二重映しとなって描かれる。
わたしが本書を開いて感じた「書巻の気」について、作者も強く意識しているとおぼしい。

一体に、我国近代の文壇の風潮は、作品に書巻の気のあることを嫌う。碌に本を読んだことのない青年作家さえ、批評家からその作品が「ブッキッシュ」だと非難されることを、致命的な断罪として恐れ慄えているのである。(17頁)
物語のなかで、リルケの挿話が登場する。主人公と女優は、リルケと彼の女友達との間に交わされた記録(おそらく『若き女性への手紙』)について話題にし、思索的な対話が進行する。物語の登場人物の動きを離れ、そこで話題になっている書物のなかの話が前面に押しだされる。
似たような雰囲気をもった物語をどこかで読んだ気がすると思ったら、堀江敏幸さんの作品が頭に浮かんだ。仏文学者的小説作法と言うべきなのか、それとも、これこそブッキッシュ(リヴレスク)と言うべきなのか。
リルケと言えば、大学二年生のとき、第二外国語として履修していたドイツ語のテキストが、同じリルケの『若き詩人への手紙』だった。そのテキストは難解で、あわや単位を落とし、留年するところだった。リルケを下敷きにして主人公たちが交わす思索的会話を読みながら、その頃のにがい思い出がよみがえってきて困った。