一週間の疲れを癒そう

「おかあさん」(1952年、新東宝
監督成瀬巳喜男/脚本水木洋子田中絹代香川京子三島雅夫岡田英次加東大介中北千枝子沢村貞子

世の中の一般的なあり方からすれば何にも珍しくないことだろうが、自分にとっては珍しく、週の半分以上、子どもが寝静まった夜更けに帰宅するという経験をした。帰ってきたとき子どもの出迎えがないというのは、それが当たり前になっていると淋しく感じられるものである。睡眠不足が積み重なり、読書をしようにも目が疲れて集中力に欠ける。
こんな一週間を乗り切り、少しボロボロになりかけた心を回復しようと、録りためていた映画のうちの一本を観ることにした。観終えたころには日付が次の日になってしまうのを承知で、それでもどうしても映画を観て、心をほどきたかった。
元気が出るような、岡本喜八監督の「江分利満氏の優雅な生活」も捨てがたいが、やはり未見の成瀬映画を観よう。ということで選んだのは「おかあさん」だった。以前同じ成瀬監督の「銀座化粧」を観て以来、若かりし香川京子が気になって仕方ないのである。
これはしみじみといい映画だった。観て良かった。観ながら飲んでいたビールによる酔い心地とあいまって、精神的に張りつめていた心がゆっくりほどけていくのが自覚できる。途中三度ほどジーンと目頭を熱くさせる場面もあった。
貧乏一家の物語。かつて営んでいたクリーニング屋を再開しようと懸命な父(三島雅夫)と、露店商をしながらそれを支える母(田中絹代)。長女香川京子も、寒い季節には今川焼、暑くなるとアイスキャンディーの露店を出して家計を助ける。友だちが洋裁学校に通っていても家の状態を考えて我慢する。
家には、肺病の兄が寝込んでいる。ほかに妹一人がいて、満州からの引揚者である従弟(田中絹代の妹中北千枝子の息子)も預かっている。中北は息子を姉に預け、美容師として独立しようと奮闘中なのである。
兄が亡くなり、父もクリーニング屋再開直後に不治の病で倒れてしまう。父の弟子である加東大介が働きに来て、田中と一緒に店をつづけている。こういう気のいい役は加東大介にぴったりだ。
入院を拒否しつづけた父もとうとう亡くなる。家が貧しいことを自覚している妹は、いじましくも、母親、ひいては家を助けるために叔父夫婦のところにもらわれていく覚悟を決める。家を出るとき、忘れ物をしたと、自ら描いた母の似顔絵を壁からはがし、持って行く。それを見守る母と姉。いま思い出してもこのシーンは胸が熱くなる。
川本三郎さんの『今ひとたびの戦後日本映画』*1岩波書店)では、この作品が数多く登場する。索引を見ると、登場頻度の最も多い映画と言っていいほど。それだけ「戦後日本映画」色が濃いということなのだろう。川本さんも大好きな作品のひとつのようだ。

傑作ぞろいの成瀬作品のなかでは目立たない小品だし、論じられることも少ないが、成瀬巳喜男がいかにも、〝貧乏っていいよなあ〟と肩の力を抜いて、楽しみながら作っていることが感じられ、捨てがたい魅力がある。(126頁)
田中絹代はこの直前渡米し、例の「投げキッス事件」を惹きおこして世間の顰蹙を買っていたが、この映画の「おかあさん」役により、復活を遂げたという。
香川京子の可愛さ、可憐さには心がとろける。モノクロの画面に真っ白で綺麗な歯が目立つ。
これまた川本さんの『君美しく―戦後日本映画女優讃』*2(文春文庫)では、冒頭、東宝の試写室で香川さんと一緒に「おかあさん」を観、最後のほうで自分が花嫁衣装を着るシーンを観て、香川さんは目にうっすらと涙を浮かべていたというエピソードが紹介されている。こんな話を聞くとますます香川京子という女優が好きになった。