ヘア初出に関する一資料

大相撲クイズ

昨日書いた井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』*1講談社現代新書)のなかで、昨日はあえて触れずにいたが、もっとも興味深く読んだ項目のひとつは、井上さんが執筆した「ヘア」だった(83-90頁)。
ここで井上さんは、本来頭髪を指すはずの英語の「hair」の語が、英語にはない陰毛の意味で現代日本に通用するようになった過程を丹念に跡づけている。
井上さんは、頭髪もしくは陰毛を「ヘア」とわざわざ英語で言いかえる呼び方は1970年代中頃から流布されだしたと論じる。大宅壮一文庫目録では、頭髪の「ヘア」は『女性自身』1974年1月12・19日合併号、陰毛の「ヘア」は『週刊プレイボーイ』1974年4月2日号がそれぞれ初出であるという。もっとも陰毛の場合、初出当初は「ヘア」単独で陰毛を指すのではなく、「下半身ヘア」「アンダーヘア」のようなかたちで使用され、「ヘア」単独で陰毛を指す事例としては『週刊サンケイ』1974年9月19日号が初出だとする。
「最初は、まっとうな英語の「ヘア」から導入がはじま」ったものの、「一九七五年以後は、はっきりと」「陰毛」の意味で定着していった。「一年もたたないあいだに、「ヘア」だけで陰毛だとわかるようになったのである」
文学作品では、『日本国語大辞典』第二版が、頭髪では藤本義一さんの作品(1974-75年)、陰毛では富岡多恵子さんの作品(1974年)の用例を示していることが紹介されている。1974年が画期であるらしいことがここからもわかる。
ただ、井上さん独自の調査によれば、これより先、田中小実昌さんの『味噌汁に砂糖』(1970年)に「ヘア」、『香具師の旅』(1971年)に「おヘアー」の事例があり、小実昌さんを「「ヘア」に関しては、けっこう先駆的な作家だったと言うべきか」としている。
ところでいま電車で読んでいる吉行淳之介さんの『贋食物誌』新潮文庫)のなかに、この問題に関するささやかな発見があって、そのシンクロに驚いてしまった。上記井上説を覆すわけではないけれども、一つの参考資料として使えるのではないか。
発見とは、吉行さんの文章にではなく、山藤章二さんの挿絵中にある。その挿絵の一部分を上に示した*2。山藤さんの挿絵は、イラストだけでなく、文章とあわせてそれだけで本文と離れて読ませる楽しいものになっているが、ここではイラスト部分だけ切りとって掲げた。
図柄は、力士が仕切のさい紙で脇の下を拭いている後ろ姿を描いたもので、力士を正面から見ている観客の女性(向かって右側)が驚きのあまり両手で顔(頬)をおさえている(文庫版55頁)。
挿絵自体は「大相撲クイズ」という表題のもと、「砂かぶりのご婦人は何をみて驚いたのでしょう」という問題と、回答として三つの選択肢が示されている。そのうちの選択肢1が「たてみつの脇からヘアがはみ出していたから」なのである。「たてみつ」とは言うまでもなくまわしのうちの股間からお尻を覆う部分のことだから、この場合の「ヘア」は陰毛の意味で使われていると考えてよいだろう*3
『贋食物誌』は『夕刊フジ』に1973年12月11日から74年4月10日まで100回にわたり連載されたもので、この挿絵がある回「蟹1」は、15回目だから73年中に掲載されたのだろう。事実山藤さんのイラストにも「'73」の年記がある。とすれば、田中小実昌作品には及ばぬものの、73年時点で「ヘア」を陰毛の意味で使った「文献」(挿絵なので文献と言うべきなのか迷うところだが、いちおう文章なのでそうしておく)が追加されることになる。
井上さんは、そもそも「ヘア」が性的含意をもつようになったきっかけとして、1967年初演のブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』の存在を指摘する。キャストの全員が全裸で登場する演出が話題になった舞台で、1970年に日本公演の話が持ちあがったものの、実現しなかったという。
井上さんはここで「深読み」を働かせ、日本公演をめぐる甲論乙駁により『ヘアー』は全裸、全裸なら陰毛という連想が生じ、浸透していったのではないかと推論を立てる。とすれば田中小実昌作品の用例とも符合する。
そう言えばむかし家になぜか1970年版の報道写真年鑑があって*4、そこに全裸ミュージカルの写真が掲載されており、子供心に性的好奇心を動かされた記憶がよみがえってきた。たぶんこれが『ヘアー』だったのではあるまいか。井上さんの「ヘア」考を読みながら、そんな性の原初的記憶が呼び覚まされたのである。

*1:ISBN:4061497626

*2:著作権法上問題があるかもしれないが、改変・悪用するわけでなく、あくまで参考資料として部分的に提示するものである。

*3:ちなみに山藤さんによる「正解」は、「マワシが、他ならぬ彼の体毛で出来ているのを発見したから…」というもの。たしかにイラストを見ると、たてみつばかりか腰に回している部分(何と呼ぶのか不明)からもチョロチョロと毛がはみ出ている。

*4:家にあったのは1970年版一冊きりで、この年の大事件と言えば、むろん三島由紀夫の割腹である。