やっぱり涙が止まらない

卒業

重松清さんのいまのところ最新の短篇集『卒業』(新潮社)*1を読み終えた。帯の背の部分に「心が震える/家族小説の最高峰!」とあって、重松さんのこの手の小説に泣かされてきた私としては、目にしただけで性懲りもなく涙腺がゆるんでしまうフレーズなのだが、その反面、今回は少し距離を置いて読めないものかと努力しようとしたのである。でも駄目だった。
重松さんは1963年生まれだから今年で41歳。本書収録の各篇を実際執筆していた時期はちょうど40歳前後だったわけだ。収録作品は「まゆみのマーチ」「あおげば尊し」「卒業」「追伸」の4篇で、作者の年齢と符節を合わせるように、主人公たちの年齢もすべて40歳という設定になっている。
重松さんは以前から、自らの年齢と同年配の主人公たちの境遇にそくした作品を発表しつづけてきている。私は重松さんの4歳年下にあたる。だから、数年前に書かれた『ビタミンF』や『流星ワゴン』『トワイライト』の主人公たちとちょうど同じくらいの年齢(30代後半)にさしかかった。
重松作品では、30代後半から40歳にかけての男女を取り巻く、配偶者との関係、子供との関係、子供の教育問題、親との問題、そして仕事の問題が、現代社会の様々な矛盾のなかで捉えかえされている。作品に登場する人間たちが、これらの問題や壁にぶつかったとき、いかにもそうするであろうという細かな感情の変化まで見事に描かれていることに、いつも感服する。
自分たちの世代の男女ばかりでなく、その子供の世代、親の世代までの感情の起伏をこれだけことこまかに想像し表現する。これが小説というものであれば、私にはとうてい小説を書く能力がない。想像力と根気に乏しいからだ。こうした小説を読む喜びにひたるだけで満足しよう。
本書収録の短篇では、いずれも「死」というテーマが大きなポイントとなっている。「まゆみのマーチ」「あおげば尊しでは、親の死がテーマだ。たしかにわたしたちの世代の親は、それが決して空想でない年齢に達しつつある。「卒業」は、26歳で自殺した学生時代の友人の遺児が突然自分を訪ね、父親の記憶を教えてほしいと懇願する。その遺児(女の子)がまだ母親のお腹にいるときに父は自殺したのだった。「追伸」は、6歳のとき最愛の母を癌で亡くし、その母の像を捨てきれぬまま、父の再婚相手に心を開かない男の物語だ。
このなかで一番泣かされたのは最後の「追伸」だった。家族が寝静まった夜中に一人で読んでいたのだが、冒頭から涙が止まらず、鼻をすすったり鼻をかんだりする音で家人を起こしてしまえば、泣きながら本を読んでいたことが分かって恥ずかしい。だから目からは涙、鼻からは鼻水を垂れ流しながら途中まで読み進み、ついに極限まで到達したので、読みさしのまま本を閉じてしまった。
一晩寝て醒めた頭で翌日読書を再開した。さすがに主人公の亡母への一途な追慕は、作中の他の人物からも「親子って、もっとざらざらしている」「死んだお母さんの気持ちもわからないんだ、あんた」のように批判にさらされ、相対化されたかに見えた。ところがまた結末にきて泣かせるのである。結局二度泣かされてしまった。
わたしたちの世代には重松清がいる。彼が書く物語は、自分たちの子供の頃への懐かしさであったり、親への思い、妻への思い、子供への思いだったりする。また友人たちとの付き合い、組織のなか徐々に責任を増してゆく立場になること、組織から排除されてしまう(リストラにあう)ことに対する微妙な心の揺れも見逃さない。重松作品を読むと、いつも元気で幸せに生きてゆくことこそが一番大事だということを思い知らされる。気恥ずかしい言葉だが、重松作品を読むと生きる希望が湧いてくるのだった。
最後に、「あおげば尊し」から、印象に残った一文を引用する。

死ぬことが、わからない。親に死なれるということも、わからない。それを言うなら、自分が年老いていくことも、息子がおとなになっていくことも……いま、中年と呼ばれる日々を生きていることさえも、ほんとうは、なにもわかっていない。すべてが初めての体験で、すべてが二度とは繰り返せない体験で、そんなふうに思うと、「おとな」だの「子ども」だのって、いったいなんだろう、という気もしてくる。(110頁)