小説としての種村漫遊記

食物漫遊記

先日読んだ種村季弘『東京百話 天の巻』*1ちくま文庫、→9/30条)のなかに、編者種村さんの文章がひとつ収録されていた。
それは「蝙蝠傘の使い方」という題名で、『好物漫遊記』*2ちくま文庫)収録の一篇である。「まずいコーヒーの話ならいくらでも書ける」という印象的な書き出しではじまるこの文章は、昭和20年代の砂糖が貴重品だった時代、悪童時代の種村さんが仲間たちと喫茶店に蝙蝠傘を持ち込み、店員が目を離した隙に傘のなかに砂糖を入れて持ち去ろうとたくらんだ話だった。
これを読んでいたら、俄然親本の『好物漫遊記』を読み返したくなってきたのである。さっそく書棚から取り出しパラパラめくっているうち、どうせ読むのなら、この機会に漫遊記シリーズ全体を最初から読み直すのも悪くないと考えをあらため、まずは『食物漫遊記』*3ちくま文庫)から読み始めることにした。
なお、ここで私が種村さんの漫遊記シリーズというのは、以下の書目を指す。文庫・著作集(『種村季弘のネオ・ラビリントス』河出書房新社)の再刊情報も付記した。このうち『迷宮博覧会』のみ元版の版元が異なりタイトルにも「漫遊記」が入っていないけれど、漫遊記シリーズと一緒にちくま文庫に入っているうえ、内容も大きく離れるものではなく、最初の『書物漫遊記』から最後の『日本漫遊記』まで、同書を挟むとちょうど2年刻みで気持ちがいいので、ひとまず同シリーズのものとみなした。

  1. 『書物漫遊記』(筑摩書房、1979年)→ちくま文庫・1986年→ネオ・ラビリントス6
  2. 『食物漫遊記』(筑摩書房、1981年)→ちくま文庫・1985年→ネオ・ラビリントス6
  3. 『贋物漫遊記』(筑摩書房、1983年)→ちくま文庫・1989年
  4. 『好物漫遊記』(筑摩書房、1985年)→ちくま文庫・1992年
  5. 『迷信博覧会』(平凡社、1987年)→ちくま文庫・1991年
  6. 『日本漫遊記』(筑摩書房、1989年)→ネオ・ラビリントス7

さて『食物漫遊記』を読んでまず感じたのは、ここに収められた文章はエッセイではなく小説ではないかということ。著述家として様々な顔をもつ種村さんの顔のひとつに、古今東西の文献から博引旁証を尽くして語られるエッセイの名手というものがある。そしてこの分野では「漫遊記シリーズ」が代表作としてあげられよう。少なくとも私はこれまでそういう理解だった。ところが今回『食物漫遊記』を読み返したところ、上の評価は誤っていたのではないかと思うようになったのだ。
私は以前、種村さんの文学作品への向き合い方、またそこから生みだされる文章の方法論について、こういうことを書いた。

種村さんにとって作品把握はエピソード本位、“エピソード至上主義”であること。/作品からただちにその意図するところを解釈しようとする性急さを抑え、まず作品はエピソードとして把握される。評論・批評はそれら厖大に集積されたエピソードのコラージュによって展開され、そこから思わぬ論点、視座が読者に提供される。(旧読前読後2002/5/21条)
『食物漫遊記』における各篇もまた、様々な典拠にわたるエピソードがこれでもかとわたしたちの前に枚挙され、圧倒される。しかし漫遊記シリーズのポイントは、そこに種村さんの実体験が挿入されることにある。種村さんの実体験が幾層にも重ねられたエピソードにくるまれたかと思ったら、いつのまにか中心にある実体験がエピソードを呑みこみ肥大化して、突如現実離れした奇譚と変じ読む者を妖しげな世界へと引きずりこむ。
「絶対の探求」における松山俊太郎の五円玉の銭腹巻、「一品大盛の味」における石堂淑朗浦山桐郎との酒宴、「狐の嫁入り」における愛宕下アパートの同居人だった狐憑きの娘、「薬喰いは禁物」における横浜の牛鍋体験、「画餅を食う話」におけるクッキングスクール学園祭での見本食食べ放題の罠、「気違いお茶会」における日本語学校の下着覗き、「食うか食われるか」における留学先での料理パーティ、「天どん物語」における家庭教師先の天どん連食体験と入院体験、「笑食会ふたたび」における澁澤邸の花見での毒きのこ食い、「幻の料理」における飯吉光夫の泥鰌食いなどなど。ほとんど全編こうした虚実皮膜の体験談が話の中核となっている。
これらはもうほとんど小説である。としたら、これまで私は種村さんを誤解していたのではないか。漫遊記シリーズを小説とみなすと、これだけブッキッシュでエピソードに富み、これらエピソードの連鎖によって実体験が虚構化されてしまうといったたぐいの小説は、ちょっと日本では類例を見いだせない。極言すれば、種村さんを小説家として遇してこなかった、種村作品を小説と見なさなかったのは、あるいは日本文学の世界における大きな過失だったのではあるまいか。
以上の指摘の核心部は、実は私のオリジナルではない。どの場でだったか忘れてしまったけれど、以前動坂亭さんと交わした議論のなかで、動坂亭さんは漫遊記シリーズを「小説」として把握してみてはという指摘をされており、これが頭の隅に残っていたのである。
もっとも動坂亭さんの問題提起に対し当時私は、「ただ今の私の考え方でいえば、「小説」と見なすことができる可能性はあっても、それはけっして「物語」ではないといえる」と書いた(前記旧読前読後2002/5/21条)。そしてその後このテーマを積極的に考えることを怠っていたのである。
「物語」かどうかという点*4はなお保留するにしても、「小説」であるということについては、可能性というレベルから一歩進んで、そのように見なしたいという考えに変わっている。これから漫遊記シリーズを読み返してゆくなかで、以上の私見が変わるのか、補強されるのか、われながらワクワクしている。

*1:ISBN:4480021019

*2:ISBN:4480026533

*3:ISBN:4480020217

*4:ここでは唐突なようだが、「物語」か否かというのは、そのとき澁澤龍彦種村季弘を比較し、澁澤は歴史を物語化したと考えたことからきている。