遺骨の上で暮らす東京人

江戸の町は骨だらけ

永井荷風『日和下駄』*1「第二 淫祠」*2に、次のように書いている。

裏町を行かう。横道を歩まう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラ\/鳴して行く裏通にはきまつて淫祠がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしで其の儘に打捨てゝ置かれゝば結構、稍ともすれば取払はれべきものである。それにも係らず淫祠は今猶東京市中数へ尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或趣を添へる上から云つて淫祠は遙に銅像以上の審美的価値があるからである。
先日本駒込三百人劇場から動坂経由で本郷台地を千駄木不忍通りまで下って歩いていたとき、ふとこの一節が頭に浮かんだのである。この界隈を歩くとき、横丁に目をやると、あちこちにこんもりと木々の茂った神社やお寺を見つけることができる。もっとも荷風が淫祠という場合、「或は繁華な町の倉の間、又は寺の多い裏町の角なぞに立つてゐる小さな祠やまた雨ざらしのまゝなる石地蔵」を主に想定しているので、いま現在でも都会で目立つ寺社を淫祠と呼ぶのは憚られる。
鈴木理生さんの文庫新刊『江戸の町は骨だらけ』*3ちくま学芸文庫)を読むと、これら本駒込にある寺院は、大雑把に言えば、いまの江戸城付近に存在した中世寺院が江戸初期に江戸城拡張のため神田付近に移転し、さらに明暦の大火で再移転したものであることがわかる。
事実本駒込でも最大の寺院のひとつ吉祥寺はもともと江戸城を築いた太田道灌が城内に祀ったのを起源とし、家康が江戸に入ったとき神田駿河台に移転し、明暦の大火によりいまの場所に再移転したのである*4。だから駒込界隈は「淫祠」を思わせる古びた寺院が多いのだった。
鈴木さんの本は、江戸の寺院が外へ外へと移転していく過程で境内に営まれていた墓地に置き去りにされた人骨に注目し、江戸から近代に至る都市葬制のあり方や、近現代の都市開発における「人骨発見の歴史」をたどった興味深い本だった。
東京はいまなお開発がやむことはない。しかし私たちの耳に「人骨発見」というニュースはあまり飛び込んでこない。なぜかといえば、ひとたび人骨発見となると、それが何か事件性のあるものなのかを調べるため、まず警察に届けなければならない。事件性がないとわかってはじめてそれらが考古学の対象となり、調査が行なわれることになる。しかもこの間工事は凍結され、その上調査費用は「原因者負担」が原則であるため、たとえ人骨が見つかっても表沙汰にはならない(してはいけない)という仕組みになってしまっているからなのである。
そのような悪条件にもかかわらずかろうじて表面に出てきた人骨発掘事例から、鈴木さんは「江戸の町は骨だらけ」だと論じる。江戸−東京は世界でも指折りの大都市であり、本書のなかでも紹介されているが、江戸時代には火事や疫病などときおり多数の死者の出る災厄に見舞われてきた。彼ら死者を葬るための寺院・墓所が至る所にあったのはごく当然のことなのである。
ただそれでも、これだけ大量の人骨が発見されるということは、移転のさい墓地に埋葬されたお骨は改葬されることなくそのままの状態で放置されたことを意味する。遡れば前述のように都心部に数多くの寺院があり、そこの墓地がそのまま地中に埋もれていることになるから、東京に住むわたしたちは、知らぬ間に江戸の墓地の上に住んでいるかもしれないのだ。鈴木さんは、寺院移転のさいの遺体・遺骨(=死者)の放棄は当時は普通のことであり、それゆえに死者の抽象物としての墓標(墓塔・位牌)、ひいてはそこに記される戒名への関心が高まったのだと興味深い指摘をする。
この江戸の人びとの位牌へのこだわりは、先人の墓碑を尋ね歩く掃苔趣味につながっているという指摘も面白い。掃苔を楽しんだ荷風はやはり江戸文人の系譜を引いていたわけである。
ただ、このことと、本書の別の箇所で述べられている日本人の遺骨主義(仏舎利信仰などもそれに含まれる)はどのように関係するのだろう。そこがあまり見えてこないのが残念。

*1:ISBN:4061976850講談社文芸文庫版。岩波文庫版『荷風随筆集(上)』ISBN:400310417X

*2:いまATOKで「いんし」と打ったら、ちゃんと「淫祠」が登録されていてびっくり。

*3:ISBN:4480088717

*4:ちなみに武蔵野市吉祥寺は、駿河台吉祥寺の門前町住人が大火後移住させられた場所がそう名づけられたとのこと。