全集買いとバナナ

私の食べ歩き

sumus』第7号に、同誌同人の荻原魚雷さんが面白い一文を書いている。「全集とひとり相撲」と題したもので、20歳のとき年一回は全集を買おうと決意したという風変わりな書き出しから始まる、“全集蒐集私史”とでも呼ぶべき一篇となっている。私はこの荻原さんの文章にいたく共感をおぼえた。なぜなら私も全集好きだからだ。
全集好きとは言っても、年一回買うという志を抱いたわけでなく、その時々の関心で買い揃えてきたに過ぎない。同じ著者の本でも、大きさやデザインだけでなく文字の組み方・字体なども異なる単行本を少しずつ買い集めて愉しむというやり方こそが本好きとしての王道かもしれないが、私は、デザインも統一された本がずらりと並ぶ壮観、全集を所有するという満足感を優先させてしまう。
いま「全集を所有するという満足感」と書いた。自分でも情けないと思うのは、あれだけ読みたいと思ったから買った全集なのに、買った時点で安心して滅多に読むことをしないからである。せいぜい「老後のために」などと言い訳を加える程度。われながらもったいない話だ。
もうひとつ言い訳を重ねれば、買った全集はたいてい書棚の一番上に追いやられるか、書棚の奥深くにしまい込まれ、前列にずらりと文庫本などが並び隠れてしまうから、目に触れにくく取り出しにくい。だからなかなかふだん読もうという気が起こらないということもある。
そうした性分であるにもかかわらず、獅子文六全集』朝日新聞社)だけは頻繁に読んでいるのは驚くべきことだ。むろん獅子文六の小説が面白いというのが最大の理由だが、この全集は買った時点ですでに置場がなく、私の部屋の入口付近に積み重ねられ比較的目につきやすく手に取りやすい状態にあるというのも大きい。
『やっさもっさ』に続き、その勢いで第7巻収録の『バナナ』も読み終えた。『やっさもっさ』は原作に軍配を上げたけれど、『バナナ』は引き分けか。渋谷実監督による獅子文六原作映画の例に漏れず、やはり原作のほうが濃い印象がある。バナナ貿易にからむあれこれ、華僑の生活、シャンソン。そして、主人公の父呉天童(映画では尾上松緑)のグルメ・グルマンぶりに代表される食味小説的側面。
映画はこれまた原作の雰囲気を損なわず縮約、薄めてしまっているのが難点だが、それを出演者のキャラクターがうまくカバーして引き分けに持ち込んだという感じ。映画を先に観てその印象が強烈だったからかもしれないが、宮口精二杉村春子の役は、まるで獅子文六文学座の役者に当てて本作を書いたようで、読みながらその人以外をイメージできないほどのはまり役と思えてしまう。
本作品で印象に残った台詞は、ラストで呉天童が妻紀伊子に日本への帰化を勧められ、それを拒んだときのもの。獅子文六はどこかにこういう台詞をさしはさまずにはいられないらしい。

せっかくだが、それだけは、断るよ。べつに、中国人の誇りを持ってるわけではないが、いまの日本の様子を見ていると、日本人になったところで、幸福は期待できないぜ。どの日本人も、ノンキな顔をしているが、いまに、想像もつかない苦痛と恥辱が、この国を見舞ってくるかも知れんよ。わたしは、そんな国の国民になりたくはないね。わたしは、個人の和平を、どこまでも守り切って、生涯を送りたいのだ……
ところで獅子文六のバナナへの関心は、すでに7年前に書かれた『やっさもっさ』からもうかがえる。主人公志村亮子がサイドビジネスとして不倫相手のカナダ人貿易商ドウヴァルからバナナ輸入を勧められるのだ。ドウヴァルの持つ権利を移譲され、関税分・手数料分を利益とするという甘い話である。
『バナナ』執筆直後に書かれたとおぼしいエッセイ「バナナの皮」(中公文庫『私の食べ歩き』*1所収)の中で獅子は、自らとバナナとの関わりを回想している。それによれば15、6歳の頃は大好きで、その後成長して飲酒を覚えた頃になるとすっかり魅力を失い、戦後に至ったという。戦後「第三国人」(呉天童のような華僑もそれに含まれる)経営の喫茶店でバナナに接したことをきっかけに、食べ物以外の側面に関心を抱いたらしい。それは輸出入という貿易の観点と、日本人のバナナ輸入の特色という点である。後者はこういうことだ。
日本人は青い未熟のバナナを輸入して、バナナ室に入れて、暖ためたり、冷やしたりして、まるで日本酒でもつくるように、ウマいバナナに加熟させる独特の術を、心得てるらしかった。
そうすると、日本のバナナが、世界で一番ウマいことになって、青少年子女がバナナに愛着するのも、ムリはないかも知れない。
ある意味一般的かと思っていた青バナナの加熟法は、日本独特で、当時は物珍しかったのだと知って興味深い。こうした点に着目する獅子文六はやはり炯眼だと思うのだが、本人はこのエッセイの最後で自虐的にこう書いている。
とにかく、バナナには滑稽なところが沢山あるので、私はバナナを笑う小説を書こうとしたのが、バナナの皮に滑って、転んだような結果になった。
「バナナを笑う小説」とは何とも愉快な表現だが、この遊び心が例の「青ぶくの歌」に結実したのだろう。原作を読んだだけではピンとこない「青ぶくの歌」が、ひとたび黛敏郎によって曲がつけられシャンソンとなって岡田茉莉子によって唄われると立派に聴こえるのだから、不思議なものである。