食って出してまた食う

食味風々録

阿川弘之さんの『食味風々録』*1新潮文庫)を読み終えた。本書には昨日も4/3条も言及した。それでもなお読後こうして何かしら感想を書くことがある。それだけ内容豊かな面白い本だったということである。
本書は読売文学賞を受賞した食味エッセイ集で、思い出の料理や料理にまつわる思い出、料理を通して描き出す交友録といったおもむきがある。書名は「ぶうぶうろく」と読ませる。山田風太郎の戒名「風々院風々風々居士」と同じように、「ふうふうろく」かと思っていた。食べ物に対していつも「ぶうぶう」と不平を言っているかららしい。
私はたぶん阿川さんの本を読むのは初めてのはずで(『志賀直哉』を『図書』連載中に読んだことがある程度)、本によっては頑固に旧かなを守っているものもあったのではなかったか。本書を読んでも言葉の問題には敏感であり、「風々居士」ならぬ「ぶうぶう居士」であることがわかる。
文章もまことに滋味があって、私の好み。山本夏彦丸谷才一といったラインにつながるような気がする。何度も噛んで味わいたいと思わせる文章であるとともに、前述のごとく内容もまた話題豊富で、「食味エッセイ」とひと言で表現してしまうのが憚られるような深さをもつ。阿川さんのエッセイだけでなく、わが国の読書界において、経験を積み博識で文章がうまく、また読者の心をとらえるツボを心得ているような「物知りエッセイ」は枚挙にいとまがない。ひょっとしたら日本はこの分野では世界随一なのではあるまいかと思うことがある。百花繚乱で飽きることがない。
さて本書を読んで印象に残るエピソードといえば、「ひじきの二度めし」に指を屈する。
「美味について」というテーマで阿川さんが向田邦子さんと生涯たった一度の対談をしたとき、阿川さんは「蚊の目玉」「栗鼠の糞」が美味しいらしい(食べたことはなかったそうだ)と話題を提供した。「蚊の目玉」とは「蝙蝠の糞を集めて漉して、蝙蝠が食った蚊の、未消化のまま排泄される目玉を、何万疋分も、洗浄乾燥した物が中華料理の材料として珍重される」というものである。
「栗鼠の糞」とは、小さな実がついたコーヒーの花のしぼみかけを食べた栗鼠が実を消化しないまま排泄した糞を洗って乾かしたもので、オランダ領東インドでは最高のコーヒーとして女王に献上されるという。いずれも物が体内を通過する間に発酵なり何なりで変質して美味になるとされるものだ。
これに対して向田さんが出したのが「ひじきの二度めし」。人間が食べたひじきは、「ちょっとふくらんだかたちで体外へ出て来ます。それを集めて、洗ってもう一度煮たのが」それだという。昔、海辺で暮らす貧しい人びとの暮らしの知恵だといい、貧しい人びとにとっては二度使えて二度目の方が美味しいということで重宝されたというのだ。これらは阿川さんも向田さんも伝聞のみで実際食べたことがないとのこと。
「蚊の目玉」「栗鼠の糞」ならば一度くらい試してもいいと思うけれど、「ひじきの二度めし」となると二の足を踏む。でも「ひじきの二度めし」が一番美味しそうだから困る。本書にはこんな「美味しそうな」エピソードが満載であるが、もっとも美味しそうに感じて口中に唾液があふれてきてしまったのが、次に紹介する阿川家で供される「かつぶし飯」の描写。一番単純な食べ方が一番美味しいという逆説がここにある。

我が家のかつぶし飯は、弁当箱なり小鉢なりへ、炊き立ての白いごはんを軽く入れて、それに醤油でほどよく湿らせた削り節をまぶす。その上へうっすらとわさびを添え、黒い海苔一枚敷きつめれば、容器の下半分が埋まる。上半分は同じことの繰返し。炊き立ての白米、醤油をひたした薄削りの鰹節、わさびと海苔。蓋してむらして、味が浸み込むまで、あったかさ加減が丁度よくなるまで待って、二段がさねの此の混ぜごはんに箸をつけると、海苔の香わさびの香がほのかに立ち昇り、何とも言えず旨い。(「福沢諭吉と鰹節」)
仰せのとおり、何とも言えず旨そうだ。これをうまそうだと思うような日本人に生まれてよかった。