事件としての文庫化

歌舞伎への招待

BOOKISH第6号*1(特集:戸板康二への招待)が出たおりもおり、戸板康二さんの代表的著作『歌舞伎への招待』*2岩波現代文庫に入ったのは「事件」であったといってよい。
本書を世に出した花森安治に遠慮して文庫化の申し入れを断りつづけたといういわくつきの本だったから、亡くなって10年、どこかの出版社が文庫にしてもいいだろう、いや文庫にすべきだとは思っていたものの、ここまでタイミングよく、しかも岩波である。精興社の風格ある写植文字で名著がよみがえったことを素直に喜んでいる。
すでに本文庫版については、書友ふじたさん(id:foujita)が大絶賛の声をあげておられ、私がそれに付け加えるべき賞賛の言葉はすでにない。唯一の心配だった元版収載の多彩な写真図版だが、文庫版に漏れなく収められたことは、ふじたさん同様大喜びだった。その他読み通してのいささかの感想を以下記そう。
私はすでに元版を持っているし、読んでいるから、今回の文庫版は再読になる。ふじたさんにとっては、本書によってまさしく“歌舞伎への招待”を受けたという記念碑的著作であるということだが、対する私の印象ははなはだ心もとないもので、いや、心もとないどころか、印象がほとんどないのである。2000年7月に読んだ記録があるのだが、感想を書きとめておくわけでなく、読んだ記憶がほとんど残っていない。
すでに歌舞伎を見はじめ、たとえば渡辺保さんの『歌舞伎―過剰なる記号の森』*3ちくま学芸文庫)に親しんだあとに接したゆえに物足りなく感じたのだろうか、事情はこれまたよく憶えていない。かりにそうだったとしたら、そのときの私は大きな読み違いをしていたということになる。
実際今回この文庫版を再読して、的確に歌舞伎の本質をまとめあげる筆づかいの見事さに驚かされたのだから。のちの『ちょっといい話』に結実するような短章をつなぎ合わせる(カバー折り返しの要約には連句のように」とある)スタイルのスマートさと、「僕」という主語表現や断定的な文体からほとばしる清新なイメージは、刊行後50年を経たいまでも、なおみずみずしさを失っていない。
たとえば七代目幸四郎の貫禄あふれる足づかいについてこう書く。

「連獅子」や「吃又」の大頭の舞における、幸四郎のその足づかいが、はっきりまだ僕の目に残っている。
そういう場合、足袋がおろし立ての、雪のように白いものでなければならぬことは、いうまでもなかろう。(「おどり」)
語られる内容もまた同じように新鮮さを失わない。『ちょっといい話』につながるような落とし話的エピソードにしても、それらはことごとく歌舞伎の本質をついた挿話ばかりで、挿話の切り取り方とその見せ方にこのときから長けていたことをうかがわせる。
本質をついた重要な指摘でありながら、力んだ主張になっていないところもスマートだ。下座で鳴らされる大太鼓について、この叩き方の一つに「ドロドロ」と呼ばれるものがあって、これらは幽霊や妖怪など、「すべて人智を絶した力が働きかける場面」に打つものだとしたうえで、ついでにという感じで、
面白いのは、夢の場面がすんで、現実に戻る時にも、ドロドロを打つことで、むかしの観念では、夢も一つの魔物だったのであろう。(「下座」)
という指摘をさらりとしてみせる。さすがは折口信夫門下といったところで、夢の民俗学的解釈について、歌舞伎の下座音楽を例にとったわけである。本書にはこのような鋭い指摘が随所に光っていることを、いまさらながら思い知らされたのであった。