島村利正を読むまえに

いつか王子駅で

島村利正の作品集が文庫に入った。『奈良登大路町/妙高の秋』*1講談社文芸文庫)である。
書友やっきさんのご教示によると、島村の作品が文庫になったのは中公文庫『妙高の秋』に次いでこれが二冊目らしい。単行本短篇集そのままの文庫化でなく、佳品を集めた選集である。
志賀直哉瀧井孝作に師事した島村利正という作家の名前を教えてくれたのは、堀江敏幸さんの長篇『いつか王子駅で』*2(新潮社)であった。この小説のなかで主人公「私」が都電荒川線沿線にある古本屋で手に入れたのは、短篇集『殘菊抄』(その後新宿のデパート古書市で『清流譜』も入手する)。この短篇集の書名となっている「残菊抄」は文庫本にも収録されているのが嬉しい。
いますぐにでも島村利正を読みたいのだけれど、少しさきのばしにして、『いつか王子駅で』を読み返そうと考えた。2001年6月に出たいまのところ堀江さん唯一の長篇小説である本作は、刊行直後に一度読み、同年9月に再読している(感想はそれぞれ2001/6/27、9/16条参照)。今度が三度目になる。
再読のおり、私は「読みながら、再読はおろか、三読、四読にも耐えうる名作であることを確認する」と感想を書いた。今回三読してみて、上記の感想を訂正する必要がないことをあらためて確認した。私の偏愛する東京小説ベスト3を選べと言われれば、荷風の『墨東綺譚』とこの『いつか王子駅で』をたちどころに指摘して胸を張る(もう一席は空席。仮に川本三郎さんの『青いお皿の特別料理』としておく)。
もともとこの長篇は雑誌『書斎の競馬』に連載されていたこともあって、馬(競馬)の登場する小説が出てくるのがブッキッシュ魂をくすぐる。島村の『殘菊抄』からは、そこに収録されている「仙醉島」(文庫にも収録)の文章が引用されている。
ブッキッシュな匂いに満ちているから、ここに登場する作品を読みたくなるのも道理。再読したとき、やはり本作品に登場する徳田秋声『あらくれ』*3新潮文庫)を読みたくなって読み始めた。しかしながら情けないのは読み通せなかったこと。いま見てみると100ページのところに栞が挟まったままである。
果たして島村利正は大丈夫か。でも島村の文章に対するこんな表現を読むと、早く文庫本をめくりたいという衝動にかられるのである。

頁をひもとけば岩清水のような文章が、都塵にまみれた肺をたちまち清めてくれる。このひとの行文から漂ってくる気韻に似たものはいったいなんだろうと先日来考えつづけていたのだが、恩師瀧井孝作の『全集』に月報として書きつづったこの『清流譜』を読み進めているうち、ああ、これは檜の香りだな、と思い到った。(106頁)
三度目の今回もまた新しく発見した点は多い。主人公が間借りしている部屋の家主である町工場経営者米倉さんは、ビールを飲んで「げっ、ぷうぷ、がっ、おうっぷ」という「独特のガス抜き」をする。このお世辞にも上品とはいえない生理現象に対する堀江さんの関心は、何も最近のことではなかったのだった。
そしてこんな文章を読んで、記憶の奥底に沈んだままの甘美な思い出がふつふつとよみがえり、胸がきやきやしてくるのである。
咲ちゃんの陸上競技会があるという秋のスポーツシーズンは、私のなかではつねに今日のような日曜日の午後の、現実の光景ではなくブラウン管のなかの映像とふかく結びついている。プロ野球日本シリーズの第七戦。日本オープンゴルフの最終日最終組の十八番ホール。菊花賞から有馬記念にかけての、クラッシック・レースの第四コーナー。鮮烈な印象を残している場面は、いつも茜色の背景のなかにあった。(95頁)
さて、島村利正を読むことにしよう。

*1:ISBN4061983571

*2:ISBN4104471011

*3:ISBN4101012024