60年代の開高健と山口瞳

ずばり東京

12/16条で触れた重松清さんの文庫新刊『世紀末の隣人』*1講談社文庫)の最終章は、「AIBOは東京タワーの夢を見るか」というタイトルで、著者は自らの持つ犬型ロボットAIBOを連れて東京タワーに上り、眼下に広がる東京の町並みをAIBOに眺めさせている。
この文章は開高健『ずばり東京』*2(文春文庫)に対するオマージュでもある。
重松さんは、開高健が同じく東京タワーに上って眺めた東京、また『ずばり東京』で開高が歩いた東京の町のスケッチを引用する。そういえば最近この本を買ったな、と思い出して積ん読本の山から探し出して読み始めた。
『ずばり東京』(以下、本書と略)は1963年から64年にかけ、一年半にわたって『週刊朝日』に連載されたルポルタージュである。
64年はいうまでもなく東京オリンピックが開催された年にあたる。本書でも「超世の慶事でござる」という一章でオリンピック開会式の様子が戯画的にスケッチされる。
開高は開会式を見て帰った夜に風邪をひき、高熱を発して二週間寝込んでいたという。本書最後の一章「サヨナラ・トウキョウ」では閉会式の様子が、こちらは粗削りに描かれる。
開高曰く、

東京には中心がない。この都は多頭多足である。いたるところに関節があり、どの関節にも心臓がある。人びとは熱と埃と響きと人塵芥のなかに浮いたり沈んだりして毎日を送り迎えしているが、自分のことを考えるのにせいいっぱいで、誰も隣人には感心を持たない。
そんな東京を、人間と場所と状況から切りまくったのが本書である。いたるところに関節があり心臓があるから、どの文章にも切り口から血がしたたり落ちるように生々しくバイタリティにあふれている。
それにしてもこの好奇心。さまざまな事象を取材するなかには気が向かないものもあっただろう。でもそれを感じさせない筆力にただ圧倒される。
人間を切り口にした文章から、山口瞳さんの『世相講談』を思い出した。こちらは未読だけれど、パラパラとページをめくって目に飛び込んでくる文章の雰囲気が何となく似ているのだ。
図らずも『世相講談』は本書の直後に連載が開始されている(65年〜)。『世相講談』は『ずばり東京』を意識して、まるでしのぎを削るように人間スケッチ・社会スケッチを重ねたのだろうか。

*1:ISBN4062739127

*2:ISBN4167127067