「物語る」藝の呪力

徳川夢声と出会った

茺田研吾さんの徳川夢声と出会った』*1晶文社)を読み終えた。
一人の大学生が、好きな作家だった石川達三が対談相手として登場していたという理由で徳川夢声の対談集(「問答有用」のアンソロジー)を買い求め、それをきっかけに彼のとりこになり進級論文のテーマに夢声を選ぶ。さらに卒論でも夢声を論じ、以来本職のPR誌編集・執筆のかたわら夢声の資料を収集、関係者への取材を精力的におこない、私家版のミニコミ誌で夢声の評伝を執筆・制作、最終的に本書にそれらが結実した。
卒論執筆から五年(と本書にはあったような気がする)でこのような一冊をものされた著者に心から敬意を表したい。
新刊ではほとんど入手不可能になっている著書・関連書を蒐集、単行本にすらまとめられていない文章にも蒐集の手が広がる。いっぽうで夢声の話術を収めた音源を探し集めながら、次第に自分なりの夢声像をかたちづくってゆく。
すでに忘れ去られた感のある「時の人」のたたずまいを見事に「再発見」された執念には羨望ばかりでなく、嫉妬すらおぼえる。
嫉妬というのは、同じく夢声が好きということでなく、一人の作家(といちおうここでは書いておく)をとことんまで追求して一定の成果をあげたという点だ。関心が散漫で飽きっぽい自分にはできないことで、だからこそそれを成し遂げた人が羨ましくも妬ましい。
徳川夢声。これまで私が接したことがあるのは、「オベタイ・ブルブル事件」というユーモア小説を『新青年』に発表した作家としてである。
読んだのか、奇妙なタイトルだけの記憶なのか、憶えていない。手元に角川文庫の中島河太郎新青年傑作選集5 おお、痛快無比!!』があるが、ここには当該短篇でなく、「ポカピカン」という別の短篇が収録されている。
それはともかく、本書を読んで徳川夢声の話術に触れてみたい、そんな気持ちにさせられたのは確かである。
「朗読」でなく「物語る」。これこそが徳川夢声の話術の要諦であると喝破されたくだりは本書の白眉だろう(「4 話術の神様」)。
たんに原文そのままを情感を込めて読めばいいというものではない。語りに適するよう自分なりにアレンジを加え、原作の魅力を際だたせ、ときには原作を超えた徳川夢声の作品という印象を聴く人に与える。
そんな夢声の特徴は「間」にあるという。この言葉に「ま」でなく「マ」とわざわざカタカナでルビを振って異化したところが面白い。一般的な「間合い」という意味合いを超えて、なんだか夢声独特の藝がカタカナの「マ」一文字にあらわれているかのようだからだ。

七五調の語り口を持たない独特の間と、講談調のたたみかけとの微妙なバランス、それに高低強弱の巧みな声の変化。これが、夢声の物語の醍醐味である。声色の対象として愛された夢声の武蔵ではあったが、この微妙なバランスだけは、いかなる声色名人であっても再現できる芸ではなかった。(78頁)
語りにおける七五調というリズムはわたしたち日本人に心地よく響くものであると思う。黙阿弥や南北歌舞伎での七五調を聴いていると陶然とするのである。
ところが茺田さんは夢声の語りは七五調でないという。戦時中、「国語の教科書を夢声の語り口で読んで、先生に叱られる小学生まで出現」したそうだ。
語りの藝がこれほどの影響力を及ぼしていた時代との隔たりを痛切に感じるとともに、七五調でない語りがなぜかくも熱狂的な庶民の支持を得たのか。ますます聴いてみたいという気持ちに駆られている。

*1:ISBN4794966008