父親の感傷

記憶の放物線

北上次郎さんの『記憶の放物線―感傷派のための翻訳小説案内』*1本の雑誌社)を読み終えた。
本書は、先日読み終えて最大級の賛辞を贈った目黒考二名義の『活字学級』(角川文庫、感想は7/14条)と基本的に同じ路線に属する。すなわち、エンタテインメント小説を読んで過去の自分の体験をふりかえり、また、父として二人の息子の未来を案じ、子供の頃の自分を見つめていたわが父親の気持ちを忖度しながら感傷にひたる、そんな個人的経験と読書ガイドの間を自在に往還するエッセイ集である。
『活字学級』を読んで惹き込まれたのは、目黒さんと現在の私の家庭環境が似ているということ。いま産まれて一ヶ月になった次男は当時妻のお腹の中にいたわけだが、産まれてくる赤ん坊が男の子であることはわかっていた。二人の息子の父になるという現実が間近に迫りつつあるなかで、同じく二児の父である目黒さんの子供を思いやるエッセイが身に沁みたのである。
本書を読むと、長男と次男の年齢差まで同じであることがわかり、いっそう親近感が沸いた(父親としての年齢は私のほうが少し若いようだ)。
本書は『ミステリマガジン』に連載されていた文章をまとめたものである。したがって取り上げられている書物はミステリを中心としたエンタテインメントが多く、副題にあるようにすべて海外翻訳作品である。全36章の計36冊のうち、読んだことがあったのはベルンハルト・シュリンク『朗読者』一冊のみ。
私は翻訳物が苦手で、本書のなかで紹介される翻訳作品のあらすじを読んでも頭にスッと入ってこない。そもそもカタカナの名前を見ると、頭のなかで人物が動かなくなるのだ。あらすじだけなのに、ページを行きつ戻りつ人間関係を確認する自分の姿に苦笑する。
それなのに楽しめたのは、本書がたんなる翻訳小説の書評ではないからなのである。海外作品の好き嫌いは本書を読むうえでは無関係である。そもそも著者自身も述べているように、海外作品の紹介のされ方があらすじであればまだいいほうで、人間関係やシチュエーションだけ取り出される場合も多い。
このことは別の角度から言えば、北上さんは翻訳物(小説と言い換えてもいい)を読んでその枠組みを抽出する技量が飛び抜けてうまいということだろう。それとともに自らの過去の体験を完全に対象化し、その対象化された過去の体験と小説の中のシチュエーションを対比させる。
小説の読み方としてこれが正攻法であるのか、はたまた邪道であるのかわからないけれど、少なくとも共感できるし、その才能に惚れ込んでしまう。過去の体験の抽斗が少ない私には、たとえ北上さんの年齢に達してもこうした読み方を実践するのは無理なのだが。読み方のレベルで北上さんの地点まで到達しないのは致し方ない。
北上さんの息子さん二人は大学生と高校生で、あと十数年すればおそらく私も北上さんと同じような父親の気持になるだろう。大学生になる息子さんを「親からすると、大学生とはいっても、ついこの間まで小学生だった息子である」(「不安」)と書く。子供は何歳になっても子供なのだ。
もうすぐ息子たちは親から離れ、家には妻と自分だけが残る。毎年億劫がっていた家族旅行が、そう考えると急に愛おしいものに思えてくる。

二年すると長男が大学を卒業するので、家族で旅行に出るのもあと数回と思われる。いまは旅行なんてイヤだと思っているが、家族がばらばらになり、家族全員が揃って旅行に出かけることもなくなれば、きっと淋しく感じるに違いない。あのころ、もっと旅行に行っていればよかったと思うに違いない。息子たちが社会人になり、家を出て、老夫婦だけが残される日々になれば、そういうふうに家族で旅行に出かけた光景をきっと懐かしく思い出すに違いないのだ。(「交代」)
ところがところがその翌年、最後の旅行だと観念していたはずなのに、だれも旅行のことを言い出さない。恐る恐る口に出してみると、どうも息子たちが多忙で実現は無理らしい。そんな、せっかく最後になるかもしれない旅行を噛みしめようといまから準備していたのに…。こんな北上さんの父親像が微笑ましくも痛ましい。
十数年後の私は「ああそういえば、北上次郎さんが昔こんなことを書いていたなあ」と思い出すような家庭を築いているのだろうか。
本書を読んで、一冊だけ読みたくなった作品があった。ジェイムス・ロングという作家の『ファーニー』(新潮文庫)という作品(「横綱」)。輪廻転生をテーマにしており、ストーリーに惹かれるものがあった。