興奮の鉄道文化論

鉄道ひとつばなし

子供の頃時刻表のダイヤを「読んで」、空想の旅をすることに夢中になっていた時期があったと言えば、同じような経験をお持ちの人も多いだろう。私の場合一過性だったためそれが「鉄道マニア」という地点にまで昇華することはなかった。子供の頃夢中になると言えば切手蒐集もそうで、典型的なマニア予備軍だったと言うことができる。
切手蒐集にしても鉄道マニアにしてもほとんどが男性である。鉄道マニアに女性がいない理由について、原武史さんがジェンダー論に絡め、歴史的に検証している。
原さんによれば、鉄道の歩みは、天皇を可視化し、軍服やヒゲに象徴される〈男性〉性を前面に押し出してきた近代日本の歩みと軌を一にしており、そのためその当初から女性が排除されているというのだ。バスや航空機と比べて女性従業員が少ないのもこのためではないかとする。
この議論は、原武史さんの新書新刊『鉄道ひとつばなし』*1講談社現代新書)中の「鉄道とジェンダー」という一文で展開されている。
それにつけても本書は知的好奇心を満足させる書物であった。講談社のPR誌『本』の連載コラム(現在も連載中)をまとめたものだが、ときどき『本』を入手して原さんのコラムを読むたびに紹介の誘惑に駆られる、楽しいコラムだったのだ。
実際東武伊勢崎線営団地下鉄半蔵門線東急田園都市線の相互乗り入れについての東武と東急の沿線文化の違いについて触れられた文章(「非対称の関係を超えて」)は、あまりに見事で実感できるものだっただけに、掲示板で紹介したほど。
本書は連載コラムを内容別にまとめて並べ替えたもので、上記「鉄道とジェンダー」を含む序章「思索の源泉としての鉄道」が刺激的である。
鉄道網が張りめぐらされたのは東日本が早く、時計を気にする文化も鉄道開業とともに広がった。明治期の時計小売店の数も東北と九州では段違いに東北が多かったという(「時間意識から見た東北と九州」)。
「鉄道開通を機に、それまで実感することのなかった一分という時間の単位が導入された上、皇太子の訪問に合わせる形で、人々の行動が一分単位で規制されるという、新しい支配の形式が初めて大々的に取り入れられた」のである(「鉄道を「乗りつぶす」皇太子」)。
面白いのは序章だけではない。近代天皇制と鉄道の関係を論じた第一章「天皇と鉄道」では、指導列車や御召列車を論じ、天皇の駅としての東京駅と原宿宮廷駅を取り上げる。
また府中大国魂神社の参道を京王線が横切っていることについて天皇制との関わりを指摘し、JR中央線での飛び込み自殺者数の多さを平田篤胤復古神道的に解釈する(この論理がアラマタ的に飛躍して面白いので、興味を持たれた方は実際に本書を読んでいただきたい)。
第二章「鉄道をめぐる人物論」では、東急五島慶太と阪急小林一三を対比し、成城と柳田國男平塚らいてう京成電車荷風西武池袋線折口信夫の関わりを紹介して、代表的鉄道文学者だった宮脇俊三さんの業績を評価する。
第三章「急行・特急・通勤快速」では、JR・私鉄間の電車の種類の違いを検証して東西文化を論じるが、鉄道を介して比較文化論に及ぶ方法論は日本国内だけでなく、ソウルの地下鉄と日本の鉄道を比較した第八章「鉄道比較文化論」でも発揮されている。
第四章「歴史の駆動車としての鉄道」では、「鉄道発達史から見た茨城県」「秩父宮平泉澄」「北千住と綾瀬の間」「横須賀線は死んだ」といった魅力的なタイトルが並ぶし、その他個人的な鉄道体験記(第五章)、豆知識として使えそうな駅名の謎、現代的時刻表トリックの事例紹介、駅の立ち食いそば論など(第六章)、読む者を飽きさせない。
第七章「風俗と風景」で論じられる痴漢論では、井上章一さんの『パンツが見える。』(朝日新聞社)を援用して痴漢発生の原因を説き、女性専用車両設置を提言する。その筆致はまるで鹿島茂さんを思い出させて楽しい。
実際原さんは、井上さん鹿島さんの対談集『ぼくたちHを勉強しています』(朝日新聞社)でゲストに招かれているから、問題関心を共有しているのである。
連載は研究者として不安定な立場に置かれていた時期から開始されたという(現在の身分は明治学院大学助教授)。その頃の不安定な気持ちが文章中に吐露されているものもあって、同業者としてシンパシーを禁じ得ない。たぶん本書は著者にとって、これまでの著書以上に愛着のある一冊なのではあるまいか。