幾層もの小津体験へ向かって

小津安二郎周游

田中真澄(まさすみ)さんの小津安二郎周游』*1文藝春秋)を読み終えた。
私は小津安二郎監督の映画をまだ一本も観たことがない。しかし興味は大いにある。いずれ近いうちに見ることになるだろう。何せ今年は彼の生誕100年の記念すべき年にあたり、映画上映など関連イベントが今後(彼の忌日は12月12日)多く予定されているからだ。
関連する著書や雑誌特集も目につくようになってきた。本書も生誕100年という区切りに合わせたかのように刊行されたわけだし、生誕100年ということがなければ、私が小津安二郎という人物と接するのはもう少し先になっていたかもしれないのである。だから私も生誕100年に動かされた人間の一人となる。
彼の映画を一本も見たことがない、まして小津安二郎という人物像もほとんど知らない私のような人間が、これまで小津に関する資料を精力的に編集され、また小津に関する文章を多く発表されてきた代表的な小津論者たる田中さんの本をいきなり読んで面白いのか。
いや、それが面白かったのである。開き直って嘯けば、知らないからこそ楽しめた部分が多くあったのである。これから小津映画を観ることになるだろう。何本か観ているうちに大ファンになる可能性もある。
映画を観てふたたび本書をひもとき、さらにいっぱしのファンになってからもひもといて、「ああ、この箇所はこういう意味だったのか」と再読・三読にしたがって新たな発見をしてゆくに違いない。
これからそのようなワクワクする体験が用意されているかと思うと、たまらない興奮を感じる。初心者だけに許された特権であると、遅れてきた“小津ファン予備軍”は虚勢を張るのであった。
本書のとある一節を読んで、これこそが(本書における)田中さんのスタンスなのだろうと感じた箇所があった。

この時代、誰もが小津映画を認めていたわけではない(その点で今より健康な精神の時代だった)。大船撮影所の中でも、それは同じだった。だが、小津安二郎という人物、彼の潔癖なモラル、人間性に対する信頼は揺らぐことがなかった(その点でも今より健康な時代だった)。(「第十五章 もうひとつの才能」)
上記引用文中の「この時代」というのは、田中絹代監督の「月は上りぬ」をめぐって五社協定と対立し、所属していた松竹からいったん離れてフリーになり「早春」を撮った1954年前後を指す。
「誰もが小津映画を認め」るという神格化されたいまの時代にあって、「健康な精神」で小津映画、小津安二郎を見定める。神格化した「巨匠」としてのイメージを固定観念としてもっている初心者の私にとって、一番最初に本書と出会ったのは幸運だったとあらためて言えるだろう。小津映画はもとより映画の歴史にすら疎い私は、本書によって教えられるところ大であった。
本書は小津安二郎の人物論、作品論というだけでない。小津という一人の人間を、近代日本映画史のなかに、また、さらには「大東亜戦争」という世界史のなかに位置づけようとする。自在なパースペクティヴで小津を捉えるダイナミックな精神の運動、懐ろの深さが、小津を知らない私のような人間でも近づくことを可能にした。
田中さんはこの方法論に意識的である。
たぶん作家論や評伝で問題なのは、ともすると対象に密着し過ぎて、距離感、パースペクティヴを見失いがちなところだろう。過剰な思い入れから対象を絶対化し、主観的な信仰告白に陥ることなきにしもあらず。特に映画は嗜好に訴えるものだけに、客観的認識を拒絶する傾向が現れやすい。(「あとがき(のようなもの)」)
かくして作家論であることも評伝であることも拒否した、小津安二郎の周囲を周游する本書が書かれた。
とはいえ映画界に足を踏み入れてから病没するまでの時間的推移を崩しているわけではないから、評伝的読み方も可能であるし、実際小津を知らない私はこれで彼の一生を見通すことができた。
今年で生誕100年だから、彼は1903年(明治36)生まれ。つい最近乱歩や足穂の生誕100年だったと記憶しているから(乱歩は1894年、足穂は1900年)、ほとんど小津は彼らの同時代人と言っていいわけである。
やはり私は晩年の静かな小市民映画を撮った監督というイメージに支配されていたから、この事実を突きつけられて戸惑った。1920年代に巻き起こったモダニズムの影響を多分に受けながら、小津は映画監督として出発したのである。乱歩や足穂とも関係が深い『新青年』的モダニズムと小津との関わりは「第四章 モダン都市の光と影」で詳しく触れられている。
近代日本映画史という点でいえば、松竹蒲田撮影所が大船に移転したのは、無声映画からトーキーへという移り変わりが大きな原因であったということを知った。蒲田の近くには羽田飛行場があり、また周囲の工業地帯の雑音のためトーキーが録れないという状況が移転を決断させたのだという(「第六章 碌々でもない三六年」)。
映画のいまひとつの大きな変化、モノクロからカラーへという変化についても、小津最初のカラー映画「彼岸花」制作をめぐる社会的・技術的状況のなかに小津を置いた叙述が展開されていて興味深い(「第十六章 いろのみち、いろいろ」)。
本書のなかでもっともダイナミックな視点から小津が捉えられているのは、戦争との関わりだろう。「第八章 異国の戦野で」「第九章 伏字の戦争」「第十章 還って来た男」「第十一章「大東亜共栄圏」大概記」「第十二章 占領下というアイロニー」という五章にわたり、小津にとって戦争とは何であったのか、「周游」し検証している。
下士官として参戦した日中戦争において、小津が所属した部隊は毒ガス撒布を行なう任務を帯びていたという事実を丹念に掘り起こし、当時の日本軍における毒ガス使用について説き及ぶ。また、占領下のシンガポールに滞在して戦時映画を撮影しようとした背後には、対印特務機関「光機関」があったことを論じる。そこからは、日本の歴史、世界の歴史のなかで生きた一人の人間の像が確実に浮かび上がってくる。
それらの人々が日本の戦時体制に何らかの形で組込まれていた以上、歴史的(世界史的)枠組を外れることは出来ない。小津の行動もまた然り、である。(「第十一章「大東亜共栄圏」大概記」)
小津の映画もまたその時代を確実に呼吸していたのであり、そこから如何に彼自身の表現を生み出し得たかが問われるのである。(「第十三章 古都遍歴」)
意外に思ったのは、本書では小津が好んだという荷風への言及がほとんどないこと。本書に登場する文士は志賀直哉里見紝が主であった。小津の荷風への傾倒は川本三郎さんが論じておられるが、この一点を見ても、小津を論じるにしても様々な視点があるものだと驚く。
いまひとつ意外な点は、あれだけ東京という都市にこだわって東京を舞台にした作品を撮り続けた彼は、戦後東京に住んだことはなかったという指摘。戦後直後は母が疎開していた千葉の野田に仮住まいし、シナリオ執筆は茅ヶ崎、撮影のときは大船に滞在したという。その後居を北鎌倉に構え、シナリオ執筆は蓼科高原で行なう。いずれにしても東京には住まずに東京という都市空間を追求する。田中さんは「これは小津安二郎という東京の年代記作家の興味深い逆説」と表現する。
ブッキッシュな私は映画を観るにしても何にしてもまず本から入る。これもまた「大坂の陣」的である。本書を読んだことは、小津安二郎という「本丸」を攻撃するにあたり最も枢要な外濠を埋めたということになるだろう。