新宿裏の孤独

檀

山口瞳さんと嵐山光三郎さん二人による檀一雄の人物スケッチを引き写しているうち、檀一雄という作家への関心が芽生えてきた。せっかくだからこれに関連した読書を続けよう。ということで手に取ったのは、以前買ったままになっていた沢木耕太郎さんの『檀』*1新潮文庫)である。
それにしても本書は不思議な小説だ。檀一雄の後妻で檀ふみさんらの母親にあたる檀ヨソ子夫人の告白体という体裁をとっている。沢木作品ということを頭から取り除けると、夫人による私小説と見紛うのである。
つまり沢木さんが、自らの取材をもとに未亡人の視点に徹し、未亡人になりきって綴った「火宅の人」の裏側ということになる。
解説の長部日出雄さんはこれを「四人称」の小説と呼んでいる。たんなるルポルタージュでなくこうしたスタイルをとることにいかなる意図があったのか、あれこれ考えたけれども、これという解答を見出すことはできなかった。
とはいえ本書を失敗作とするものではない。面白いのである。私はそれほど沢木作品を読みこんでいるわけではないから、「四人称」のなかでの沢木作品らしさを感じ取ることはできなかった。良く言えば自分を消して黒衣に徹しているというべきだろうか。
だからといって告白体による私小説的な回想によく見られる湿っぽさもない。たとえば次男で自分のお腹をいためた次郎さんが日本脳炎に罹って長い闘病生活のすえに亡くなった時の記述には、愛する肉親を失った悲しみがある反面で、どこか醒めたような雰囲気も感ぜられるのである。これは「四人称」だからだろうか。
これまで私は、檀一雄作品は『小説太宰治』(岩波現代文庫)しか読んだことがない。代表作『火宅の人』は世評だけ聞いて勝手なイメージを抱いていた。本書を読んで、檀一雄という人物、また彼の代表作に対して私の思っていたイメージを修正しなければならないと思ったのである。
無頼派」に分類される破滅型で奔放な人物像、作品像を持っていたが、どうやらそうではないらしい。このことは山口瞳嵐山光三郎お二人の文章からもわかる。非常識を嫌い、高潔で、酒も泥酔まではしない。放浪癖の一方で人恋しく、それを作中の未亡人は「新宿裏の孤独」と名づける。「火宅の人」でありながら、子供たちに強く慕われた秘密がここにあるような気がする。