あなたもファム・ファタルになれる?

悪女入門

ファム・ファタル(femme fatale、以後ffと略す)という言葉を初めて目にしたのは、澁澤・種村いずれかの著作であったに違いない。ふつう「宿命の女」と訳されるこの言葉、鹿島茂さんに言わせれば、かならずしもその正確なニュアンスを伝えているとは言えないとのこと。
鹿島さんはこう説明する。

破滅することがわかっていながら、いや、へたをすれば命さえ危ないと承知していてもなお、男が恋にのめりこんでいかざるをえないような、そんな魔性の魅力をもった女。(『悪女入門―ファム・ファタル恋愛論講談社現代新書、10頁)
ファタルという単語には、たんに運命的・宿命的だけでなく、「命取り」という意味合いも込められているのである。そもそもffは、ヨーロッパの各種文学作品に登場するこうしたたぐいの女性たちを類型化した果ての抽象的存在のはず。
鹿島さんの上記『悪女入門―ファム・ファタル恋愛論*1は、これらffたちを取り上げ、分析し、そのなかでもさらにタイプ別に分けるという正反対の作業を行なっている実にユニークな書である。
本書で取り上げられている文学作品は、『マノン・レスコー』『カルメン』『フレデリックとベルヌレット』『従妹ベット』『椿姫』『サランボー』『彼方』『ナナ』『失われた時を求めて』『ナジャ』『マダム・エドワルダ』という著名なものばかり。このなかの女性主人公(=ff)たちに分析のメスがふるわれている。
細かい型は本書を実際お読みいただくとして、大きな分類としてあげられているのが、絶対的ff/相対的ffというもの。ある男にとってはffでも、他の男にとってはそうでないというのが相対的ff、どの男にとってもffなのが絶対的ffとなる。またこれとは別に、プロのffとアマのffという分け方。
自らの魔性を意識して、それを生かしきることに命をかけるのがプロ、無意識に男性を破滅に追いやるのがアマだという。プロffの代表としてあげられているのが、『従妹ベット』のヴァレリー・マルネフという女性である。
それではさまざまなタイプに分かれるffすべてに必要な条件とは何であろうか。それは金銭に対する執着のなさだという。
ゾラの『ナナ』を例に出して、男から金銭財物という甘い汁を吸い取っても、それを蓄えるのでなく、すべてを消尽する浪費家であることが絶対条件だと論じる。
さて、本書を読んでいろいろなタイプのffが存在することがわかった。鹿島さんはいったいなにゆえにffたちのタイプ別を行なったのだろう。言い換えれば、本書のタイトル「悪女入門」とは、誰が何に「入門」するものなのか。
読むとすぐわかることだが、本書は世の若い女性たちに呼びかけるような文体で書かれている。つまり、若い女性たちがどうすれば男を魅了するffになれるのか、そういった視座がとられているのである。女性たちが「悪女」(=ff)になるためのハウツー本として本書は書かれたというわけだ。
むろんこのことは裏返せば、男性にとってどうすればffを見分けられるのか、あるいはどうすればffの餌食となって身の破滅という甘美な体験にひたれるのか、そんな読み方も可能である。
鹿島さんは女子大の教師。そういう立場の方がこういう本を書いていいの、と訝りながら本書を読み終え、「あとがき」を読んでびっくりした。そもそも本書は勤務校の講義用ノートが原型になっているというのである。ffの誘惑術を教えることを通じて、楽しくフランス文学を学んでもらおうという女子大教師の苦労がしのばれる。
だから本書はff女性論であるとともに、鹿島さん独自の視点から説いた仏文学講義(評論)でもある。
ユイスマンスの『彼方』などは、本書に紹介されているあらすじを読んで、一冊読み終えた気分になってしまったほど、楽しいものだった。「こんな小説なのか」と目から鱗が落ちた。
「あとがき」では、現代女性の類型として自らが創り出した「ゴレンジャー・ガール」や「ウッフン」などの概念を駆使した男女恋愛論が展開され、相変わらずこの方面での包丁さばきの冴えを見せる。
『この人にはじまる』『破天荒に生きる』などの財界人分析、『オール・アバウト・セックス』『平成ジャングル探検』などの現代性風俗評論の体験が十二分に生かされた、読む者を飽きさせない楽しい本であった。