第47 忠太三昧

伊東忠太を知っていますか

神宮前にあるワタリウム美術館で開催中の「建築家・伊東忠太の世界展」での関連企画のひとつ、「忠太の建築を巡るバス・ツアー」に書友やっきさんと一緒に参加した。貸切大型バス一台で、都内・横浜にある忠太の建築作品を巡る企画で、当日はあいにくの雨にもかかわらず、バスが満席になるほどの熱心な老若男女が集まり、忠太の作品を見て回った。
まず驚いたのは参加者の性別・年齢層を問わない幅の広さと、知識の深さである。後者の点は、耳に入ってくる会話内容からわかる。世の中にはかくも忠太ファンがいるということにびっくりするとともに、一忠太ファンとして嬉しさも感じる。
朝10時に美術館に集合し、夜7時に美術館に戻ってくるまで、巡ったのは、築地本願寺東京都慰霊堂復興記念館)・湯島聖堂・大倉集古館・總持寺の五ヶ所。
鈴木博之編著『伊東忠太を知っていますか』*1(王国社)のなかで「伊東忠太の設計思想―妖怪としての建築」という忠太の建築作品論を書き、今回の展覧会に中心的な立場で参画した倉方俊輔さんが同行して、各所で忠太作品の特徴について解説を加えてくださった。私はこのうち慰霊堂・聖堂の二ヶ所には入ったことがあり、本願寺・集古館は外側から見たことがある。まったく初めて訪れるのは總持寺のみであった。
最初に訪れたのは築地本願寺。日本の仏教寺院らしくない異様な外観はつとに有名だが、正面の階段を上って中に入るにつれて、その存在感の強さに圧倒される思いがする。
本堂内部の広大な空間に茫然。中は仏教寺院らしい雰囲気。しかし背後にはパイプオルガンという不思議。賛美歌ならぬ仏教音楽を特別に演奏していただく。
本堂を左に入ると、忠太の有力なパトロンの一人であった大谷光瑞の執務室として作られた部屋(現在は講堂控室)があり、さらに講堂に案内していただく。部屋の隅々の意匠にまで気を配ったという細かさ。
一階に降りるとホールがあり、そこから正面階段に昇る階段の壁や手すりには愛らしい動物の彫刻が置かれている。正面階段付近の扉や鉄蓋、また雨樋を壁に取り付ける金具にまで意匠がほどこされる。倉方さんはここで、忠太の曲線派なること、パルメット文様という、オリエンタルな装飾文様の多用を力説しておられた。
次に東京都慰霊堂関東大震災で最大の被害者を出した本所被服廠跡に建てられた本建築は、さまざまな制約が課せられながらも、伊東はできるかぎりの独自性を出そうとしている。
屋根の隅に置かれた怪獣、ストゥーパ風の三重塔、和風寺院風でありながら、内部空間は西洋のキリスト教会風にして、また内部の丸い照明(ブラケット)を抱えるガーゴイルという怪獣もユーモラス。監修程度にとどまるといわれる同じ敷地内の復興記念堂にも、正面入口の上に怪獣がいる。
次は湯島聖堂。震災で崩壊した江戸期以来の旧聖堂の形をほぼ再現し、ただし作りは木造でなく鉄筋コンクリートにしたもの。これまた制約が課せられた建築物であるが、建物の色を黒とすることや、屋根にのる動物、シャチホコに独自の見識が発揮された。
とりわけシャチホコは、名古屋城で有名な雌雄が向かい合うというものでなく、それぞれ外向きに置かれるという中国のスタイルを踏襲する。湯島聖堂の境内は緑が深く、また雨上がりという湿気ゆえか、ヤブ蚊が多く何ヶ所か刺されてかゆい。
次の大倉集古館。当日はたまたま展示替え期間にあたっており、一般の展覧はされていなかったが、特別に展示物のないがらんとした室内に入ることを許可された。
参加者に郵送された当初の予定では、ここに靖国神社遊就館があったのだが、大倉集古館の許可があって変更が可能となったのだろう。石垣のうえに中国風の建物がのっているという外観。これまで見た忠太作品のなかでももっともカラフルで、中国色が強いもの。
ここもまた怪獣がたくさんいるとともに、細部の装飾も凝りに凝って作り込まれている。パトロン大倉喜八郎と忠太のタッグがあってこそここまで実現したものなのだろう。
正面入口右に大倉喜八郎のブロンズ座像があって、職員の方の話によれば像は本物よりずっと二枚目だそうだが、彼の右手には細長い経典のような書物があり、左手の下には和本が数冊積み重ねられている。これを見るかぎりいかにも古典籍好きという風情。この正面にあるホテルオークラの構えもユニーク。
最後に首都高を経て横浜鶴見にある曹洞宗大本山總持寺へ。境内が広い。去年訪れた曹洞宗の総本山永平寺には、そのあまりのシステマティックな“接客スタイル”に驚かされたものだった。入口を入ると、奥の院まで廊下づたいに室内履きで観光できるのである。
そのいっぽうでは、歩いている途中に何人もの修行僧とすれ違い、実際修行中の場所にも遭遇するなど、禅寺らしい厳しい修行の雰囲気もひしひしと感じたからである。今回の總持寺もこの永平寺とまったく同じ。檀信徒研修道場たる三松閣を入ると、スリッパに履き替えて百間廊下という長い廊下を渡って大僧堂へ至る。ここが忠太の設計にかかる。
僧侶たちの座禅道場であり、寝起きする場所でもあるという。せいぜい一人一畳程度しか与えられない。この建物自体からは忠太の特徴はうかがえなかった。
入口に戻って外に出る。ここ總持寺に忠太が眠っている伊東家の墓所があるのである。また忠太が設計したお墓も何基かある。本願寺だけでなく、この總持寺と忠太の関係も深い。仏殿を北にまっすぐ進んだところに、田中新七という人物のお墓がある。忠太の設計で、チベット仏教の塔がモチーフとなっているという、半円(曲線)と尖塔で構成されたユニークなお墓である。
近くには日本鋼管の創業者白石元治のお墓があり、これも忠太設計。多宝塔を大きくしたような形。またその脇に細長く高く聳える白石の記念柱が建てられており、墓域のなかでもとりわけ目立っている。同じく忠太設計の浅野財閥総帥浅野総一郎夫妻のお墓があったらしいが、未見。
そこを南に戻って伊東家の墓所に向かう。その途中に、今回のツアーで忠太とは無関係に密かに訪れることを楽しみにしていたお墓があった。戸板康二さん(戸板家)の墓所である。墓域に向かう前に、団体から一人抜けてお寺の案内所でお墓の場所を訊ねたところ、ちょうど歩く予定の道筋沿いにあることがわかったのだった。
戸板家は戸板女子短大の創設者という教育者の家柄ということもあってか、墓碑に刻まれた字は隷書体で風格があり、脇には顕彰碑(戸板康二さんのものではない)も建てられていた。
總持寺に戸板さんのお墓があることはわかっていたものの、都内の墓地と違ってなかなかここまで足を伸ばす機会に恵まれなかった。幸いこの忠太ツアーで總持寺を訪れる機会を得、念願が叶ったのである。戸板さんの墓前に手を合わせる。
先に進むと偶然、岩元禎のお墓を発見。漱石三四郎』の広田先生のモデルとして有名で、高橋英夫『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫)という評伝もある一高教授だ。墓碑の脇に弟子たちが建てたとおぼしき禎の顕彰碑がある。
總持寺に眠る人のなかでもっとも有名なのが石原裕次郎だろう。墓域内にも墓所までの案内板が何ヶ所かに設けられている。いわく「裕ちゃんの墓」。愛された人物であることはわかるが、きちんと名前を書いてあげたらどうか。苦笑。
さてその石原家の墓所は、わたしたちが目指す伊東家の墓所と二、三区画しか離れていない近所にあった。カラフルな供花とちらちら見える墓参の人たちによってかもし出される華やかな雰囲気の石原家墓所を尻目に、伊東家の墓所は荒廃の雰囲気がただよう。
雑草が生い茂り、道路と墓域を区切るための石造の欄干が風化のため崩れ落ちている。方形墓に半球がのる、忠太のものにしてはシンプルな墓石の表面も風化による崩落がいちじるしい。自らの設計した財界人たちのお墓に比べると見劣りするが、これはやはり端的に財力の問題なのだろうと思う。参加者有志が雑草を取り除き、花を供え、お参りする。
墓域をあとにして、麓にある駐車場まで坂道を下る。駐車場脇には聖観音の大きな銅像があって、このうちの台座部分が忠太の設計。観音像は同じ山形県出身の新海竹太郎の制作にかかる。山形人同士のコラボレーション。しなやかな曲線と直線を組み合わせた六角形で、各面に梵字があしらわれている。
都内と鶴見を往復するバス車内では、紀伊國屋書店制作の忠太の評伝ビデオ(佐野史郎ナレーション、荒俣宏藤森照信両氏出演)が流され、見ることができたのも嬉しい。今回一日を費やして忠太の作品を続けざまに見たことによって得たものは大きい。
これまで忠太の作品は個別分散的に鑑賞するだけだった。今回専門家の説明を受けながら集中的に見たことにより、反復学習ではないけれど、忠太の特徴というものが頭の中にこれでもかと詰め込まれた感じだ。
このほかにも有名な忠太作品は多い。一橋大学兼松講堂、可睡斎護国塔、中山法華経寺聖教殿、京都の旧真宗信徒生命保険会社、そして靖国神社遊就館、東大正門、米沢上杉神社…。今後これらの建築物を見るときに気をつけるべきポイントを多く学ぶことができた。
とりあえず未見の「建築家・伊東忠太の世界展」を見に行き、また機会をつくって忠太の作品群をゆっくりと見てまわることにしよう。