「居住価値」と地域社会

kanetaku2003-06-28

昨日触れた山下和之『脱・持ち家神話のすすめ―〈住む〉ための哲学を求めて』*1平凡社新書)に関連して、「居住価値」を追求し、また地域社会との結びつきに成功した人として思い浮かべるのが山口瞳さんである。
山口さんは麻布・川崎を経て、1964年に国立に転居した。当初は一戸建ての借家住まいだったが、のちその土地を買い上げて家を新築する。この国立の山口邸は知る人ぞ知る有名な邸宅であるが、山口さん自らは「変奇館」と称し、自邸建築の経緯について「男性自身」などで繰り返し語っている。家に関するエッセイを集めればゆうに単行本一冊にはなるのではあるまいか。
立山口瞳邸を一個の建築物という視点から取り上げているのが、『東京人』2001年3月号(特集「東京住宅」)だ。建築評論家植田実さんにより、山口邸建築の経緯と住宅の特徴がまとめられている。
それによれば、家を建てようとした山口さんが、師事していた高橋義孝さんに相談したところ、長男の嫁である建築家を紹介されたという。それが高橋公子さんという方で、彼女は「戦後の住宅近代化を理論と設計によって推進した池辺陽のもっとも忠実な教え子」だという。
彼女の住宅設計における基本理念は、「玄関や畳の部屋や床の間を否定して、イス坐中心の合理的な居住空間を先へ先へと追求する」ものだった。山口邸はこの彼女の理念を基本線としながらも、後年の増築時最終的には施主の希望により和室も設けられた。
植田さんはこの山口邸のなかに、モダニズムと和風の対立と融合という、日本の住宅の特徴的なあり方を見いだしている。実際二度ほどこの目で見た山口邸の外観は、モダン以外のなにものでもなかった。
それでは施主山口瞳はこのモダンな家について、どのように考えていたのか。数多くあるはずの自邸に関するエッセイのなかから、たまたま寓目を得たものから引用する。

私が家を建てることになったとき、縁があって設計を依頼した人は、新建材を積極的に試験的にとり入れようとする建築士であった。私は、それは、かえって良いことではないかと考えた。中途半端でないほうがいい。
私が家を建てるのではなく、彼女が(その建築士若い女性である)作品を造って、私および家族の者がその中に棲むのである。そういう感じのほうがいいと思った。こちらがあまり口だしをしないということである。(「新建材」、『壁に耳あり』新潮社所収)
山口さんからの注文は、「外から見た感じは倉庫。なかへはいると雨天体操場。全体として未完成な感じ。四本の桜を切ってはいけない。私は将棋を指すし女房は三味線をひくから、やや広い日本間を一室。住んでみて懐かしいような感じ(コレハ無理ダナア)」(同上)というもの。
ところが当初日本間は諦めざるを得なかった。日本間の床柱にはどんな木を使うのかと建築士に訊ねたら、かえってきた答えが「ジュラルミン」だったからだ。これを聞いて唖然とし、真剣に考えたすえ、和室を諦めることを建築士に通告した。すると彼女は莞爾と笑ったという。してやったりということか。
この新邸は見る人に変だと言われつづけ、自分でも奇妙だと思わずにはいられない。しかしこう言って自らを納得させる。「これはこれで、なかなかに結構であると思っているばかりでなく、もしかしたら、設計者の作品としては傑作のひとつになるのではないかとさえ思っているのである」(「変奇館の春」、新潮文庫版『男性自身 生き残り』所収)。
ただしこの斬新なデザインの採用がのちにあだとなる。1979年9月に国立周辺地域を襲った豪雨によって、目玉のひとつ半地下室は水没してしまったのである。このときの一連の騒動は「水害」という七篇の連作エッセイとして報告されている(新潮文庫版『男性自身 卑怯者の弁』所収)。
プールとなりはてた地下室を見て山口さんは「ザマミロ」とつぶやく。そこにはこんな意味が込められていたのだった。
洒落た家にしようなんて思うからいけない。面白がってしまうからいけない。新しがりの設計士の考えに乗っかってしまって、半地下室なんかにするからいけない。(…)総じて、軽佻浮薄がいけない。
この「水害」と題された一連のエッセイには、被害の後始末をする経過はもちろんのこと、それを通して山口さんの住まいに対する考え方が浮き彫りにされている。
以前このくだりには触れたことがあるが(2002/6/11条)、建築家には住む人の身になって建ててくれる人と、自分の作品を発表する二種類があって、水害を経て、かりにもう一度家を建てるとしても山口さんは後者の建築家を選ぶと断言している。理由は、家を建てるという若い建築家の試行錯誤に協力したいということ、純日本家屋にすることでの火災の危険、二点をあげている。自分なりの「居住価値」を追求するいっぽうで、家を建てるというプロセスを重視するのが山口流なのであった。
地域社会との結びつきという点に十分触れることはできないが、もともと国立が谷保村と呼ばれていた頃からの住人である関一族の関頑亭さんと親友になり、また山口さんが亡くなられたあとも奥さん、息子さんが国立に住まいつづけて国立の人々と交流を持っている様子を見れば、これに付け加えることはないだろう。