装幀とバーコード

装丁物語

装幀家としての和田誠さんは強硬なバーコード反対派である。自分のデザインしたカバーに二段のバーコードを入れられることに強い拒否反応を示している。少なくとも『装丁物語』*1白水社)を上梓した1997年の時点ではそうであったが、いまでもこの考え方はまったく変わっていないことを今日確認した。
和田さんが装幀を担当した丸谷才一さん十年ぶりの長篇小説『輝く日の宮』*2講談社)を見れば、逆にいっそう先鋭化しているのではないかとすら思える。
まず和田さんの本に対する基本的な考え方を『装丁物語』からひろってみよう。

ぼくは本が好きです。本好きにもいろいろあって、いい内容の文章が刷られていれば表紙なんかなくたっていい、という人もいるかもしれません。でもぼくも含めてたいていの本好きは、内容も外側も一緒になった本の総体が好きだと思うんです。だからブックデザインがあるんだし、きれいな装丁が喜ばれるんですね。(271頁)
だから、バーコードを入れようとする出版社との間に軋轢が生じる。歩みよって妥協点を見いだしてくれる版元もあれば、規定だからと頑として譲らない版元もある。後者の場合和田さんはその版元の出版物から手を引くことになる。
装丁の仕事は激減し、多忙だった頃の二割程度になってしまったという。和田さんもうんざりして装丁の仕事をやめようと思った。そのとき、丸谷さんから「和田さんは装丁をしなくてもほかの仕事があるからいいけれど、小説家は本を出さないわけにはいかないんだなあ」と言われて思いとどまった。
和田さんの装幀にはだからいろいろと工夫が見られる。ここ数年間で私が買った本のなかでは、関容子『花の脇役』『虹の脇役』、杉山正樹寺山修司・遊戯の人』(いずれも新潮社)はバーコードシールがカバーに貼られ、あとで購入者がはがせるような仕組みになっている。
また吉行淳之介山口瞳の対談集『老イテマスマス耄碌』(新潮社)は、「トレーシングペーパーをかけ、その上にバーコードを刷」った。このトレーシングペーパーが帯がわりで、通常帯に刷られている売り文句が刷られている。これはこれでおもむきがある。
いっぽう丸谷さんの『挨拶はたいへんだ』(朝日新聞社)は帯に刷られている。ただし帯だけに刷ることに難色を示す出版社もある。重版には帯がかからない場合が多いから、この主張は一理ある。このときはやむを得ず帯を外した下にも刷るという。
自らがデザインしたカバーにバーコードを刷られることには変わりがないから、決して喜ばしくはないが、「上から一センチ背から一センチという制約よりはずっと仕上がりがきれい」なので妥協せざるを得ない。
丸谷さんの本をさらに調べてみると、『木星とシャーベット』(マガジンハウス)や『花火屋の大将』(文藝春秋)が帯・カバー両方型、『千年紀のベスト100作品を選ぶ』(講談社三浦雅士鹿島茂氏との鼎談集)が帯のみ型であった。こう見てくると、出版社ごとの対応もわかってきてなかなか面白い。
しかるに今度の『輝く日の宮』はどうだろう。版元は講談社であるから、上の例でいえばもっとも和田さんの主張を受け入れている(帯のみ型)部類に属すると言ってよい。
書店に平積みにされた同書を見てまず驚くのは、帯がないことだった。これほどの話題作の新刊で帯がないというのも珍しいのではあるまいか。売り文句が刷られた帯がなく、まるでブックオフで売られている単行本のように素っ気ない。
装画として和田さんによる源氏物語絵巻風の絵があしらわれている。きっとこの一部が帯によって隠されてしまうことを拒否したのだろう。出版社側もよく帯なしという条件を飲んだものだ。丸谷さんの久しぶりの小説という価値は、いかなる売り文句をもしのぐという自信のあらわれだろうか。
もちろんカバーにバーコードは刷られていない。買うときに一瞬どうするのだろうという考えが頭をよぎった。するとレジでびっくり。なんとバーコードはスリップに刷られていたのだった。
たしかにスリップであれば重版されても付いてくる。ついに和田さんも究極の方法にたどり着いたというべきだろうか。
もとより『輝く日の宮』がスリップ型の一番最初であるという保証はない。もっと早くに試みられているのかもしれない。今後和田さんとバーコードの闘いはどう展開してゆくのか、要注目である。