引用を読むか読まぬか

異形の白昼

9月中旬に読んだ本。
筒井康隆『異形の白昼 恐怖小説集』*1ちくま文庫)。
アンソロジストとしての筒井さんの見識の高さが発揮された一冊。巻末の筒井さんによる「解説・編輯後記」を早く読みたくて本篇を読んだという本末転倒の気味があった。全篇すばらしいのだが、なかでも、小松左京「くだんのはは」、結城昌治「孤独なカラス」、筒井康隆「母子像」、曾野綾子「長い暗い冬」が恐ろしい。さらに一篇を選ぶとすれば、別に編者に敬意を表してというわけではないが、「母子像」に指を屈する。やはりこれがもっともこわい。
「くだんのはは」といい「母子像」といい、とくに有名な作品であり、わたしも過去に読んだことがあるはずなのだが、まったく憶えていない。そんな自分の記憶力のなさを思い知らされた読書体験だった。生島治郎笹沢左保といった作家にもこんなに魅力的な作品があるのだと知ったのも嬉しい。いまほとんど読めないのかもしれないが。
もう2冊。池澤夏樹『言葉の流星群』*2(角川文庫)と、谷口基『変格探偵小説入門 奇想の遺産』*3(岩波現代全書)。前者は宮澤賢治、後者は乱歩をはじめとした「変格探偵小説」、それぞれまったく違った対象を論じた本だが、そこで言及されている(引用されている)対象への向きあい方について考えさせられた本だった。
宮澤賢治作品は、童話にせよ詩にせよ、あまり読んでいない。読もうとしたことはあったが、肌が合わないというべきだろうか。深く入ってゆけなかった。でも、『言葉の流星群』のなかで池澤さんの文章とともに引用されている宮澤賢治作品であればスッと頭に入ってくる。宮澤賢治もなかなか面白いと思う。結局、自分ひとりでは歯が立たないということなのだろう。人の助けを借りなければ、宮澤賢治とは向き合えないのかもしれない。自分にとって宮澤賢治とはそういう存在であり、今後も変わらないだろう。
いっぽうの『変格探偵小説入門』。いままで作品として楽しんできた対象が評論されている。江戸川乱歩横溝正史小酒井不木夢野久作らの作品が掘り下げて論じられている。乱歩およびその作品を論じた第二章であればすんなり読める。かつてひととおりすべて読んでいるから、ここで谷口さんが論じておられる乱歩作品を知ったとしても、自分の乱歩作品に対するイメージの核がしっかりあるから、これから再読しようと思っても谷口さんの説が邪魔をするわけではない。乱歩であれば泰然と構えていられる。
ところが夢野作品だとそうはいかない。たとえば『ドグラ・マグラ』は学生の頃読んだが、あまりわけがわからないまま何とか読みとおしたという印象しかない。だから、いつの日か再読しようと思っている。この本の議論が再読に影響するのではと恐れ、表面をなでるように読むことしかできなかった。なるべく白紙で読みたいのだ。もっとも再読はいつになるかわからない。わたしのことだから、本書を熟読しても、そのあいだに論旨を忘れているかもしれないのだが。
本書のなかで惹かれたのは、第三章の横溝論(「変格の血脈―横溝正史が受け継いだもの」)だった。とくに戦前書かれた「孔雀屏風」という作品が漱石の「趣味の遺伝」の影響を強く受けたものであるという指摘は面白かった。「蔵の中」「鬼火」といった耽美的作品は横溝作品のなかでもあまり得意ではなかったが、その流れに位置するらしい「孔雀屏風」には強く興味をそそられた。角川文庫の『真珠郎』に収められているらしい。今度見つけたら買っておこう。
「変格探偵小説」を論じた評論が岩波書店から出るということに驚きつつ感慨深く受け止めていたけれど、横溝正史漱石の影響を強く受けていたという主張が、あるいは岩波から出てこそインパクトがあるということだったのかもしれない。「あとがき」などによれば、ここでの主張は既発表論文にておこなわれており、たんにわたしが初めて知ったに過ぎないようなのだが。
いずれにせよ、小酒井不木城昌幸の作品をじっくり読んでみよう、そんな気持ちにさせられ、「変格探偵小説」の大いなる可能性と文学における重要性を、文学研究の立場から教えられた本だった。