永遠と名づけ

決定版切り裂きジャック

この9月上旬に読んだ本。
伊坂幸太郎さんの『終末のフール』*1集英社文庫)。
子供の頃、人は死んだらどうなるのだろうと考えていたら眠れなくなったとはよく聞く話である。わたしもそうだった。しかも今もってときどきそういうことが頭から離れなくなって寝つけなくなり、本を読んだりして何とか忘れようとすることがあるから困ったものである。
死んだらもう永遠に家族と会えなくなる。それだけでなく、何億年かあとには地球という星そのものもなくなって、自分たちが生きていた痕跡すらなくなってしまう。そんなことを考えると恐ろしくなってしまうのだ。そんな死への恐怖、永遠への畏怖から、宗教や文学が生まれてきたのだろう。
『終末のフール』は、8年後に小惑星が地球に衝突し、人類は滅亡すると予告されたあと、5年を過ぎ、残り時間3年となった時点での仙台に生きる人びとを連作形式で描いた作品である。滅亡予告直後には世の中はパニック状態になり、絶望した人たちによる略奪や殺人などが横行し、自殺も増加した。5年を過ぎた頃になるとそれも若干落ち着いたというあたりの絶妙な時間的配置のなかに、終末を迎えようとする人びとの暮らしが点景として映し出され、それが底の方でつながっている。
やはり伊坂さんは物語の設定がうまいなあと脱帽する。そのうえ、そうした設定のなかで人間はどうなってゆくのかという想像力が豊かであり、細部に違和感を持たせない説得力を持っている。
もし本当にそんな予告がなされたなら、自分はどういう行動をとるのだろう。他人をかえりみずひたすら食料確保に走るのか、安全なところなどないくせに、少しでも安全なところに逃げようとするのか。あるいは達観して、どうせ無駄になることがわかっていても、そのまま仕事を淡々とつづけるのか。
すぐに達観はできないだろう。ならば、どのような階梯を経ればそういう境地に至るのだろうか。いろいろと考えさせられる物語であった。
仁賀克雄さんの『決定版 切り裂きジャック*2ちくま文庫)。
1985年に刊行された元版以来蓄積されてきた切り裂きジャック関連の本をさらに渉猟してそれらを紹介し、最終的な見解をまとめる。あとがきによれば、たんなる85年版の増補ということではなく、大幅な増補改訂をしてあらたに書き上げたのだという。
初耳だったが、切り裂きジャック研究者(愛好家)を「リッパロジスト」と呼ぶのだそうだが、事件(1888年)から100年以上を経て、もうあたらしい証拠・証言などは出現しないという21世紀の今出された本書は、リッパロジスト仁賀さんの集大成というべきなのだろう。
読みながら、そもそもこの殺人鬼を「Jack the ripper」と呼んだ人は誰なのだろうと不思議に思った。ネーミングセンスが素晴らしいからだ。この呼び名が殺人鬼のイメージを決定づけ、100年以上にもわたって恐怖の記憶を残し、人によっては強烈に魅せられ、「リッパロジスト」まで生んだその名前。
答えは本書にあった。第二の殺人後に新聞社に送られた犯人自身からの犯行声明とされる投書。そこにそう署名してあったのだという。以降この名前が犯人の呼び名となった。仁賀さんはこの声明は犯人のものではなく第三者の悪戯だと断定しているから、結局その「悪戯者」が切り裂きジャックという大殺人者のイメージを導いたことになる。
では「Jack the ripper」を「切り裂きジャック」と邦訳した人は誰なのか。Jack the ripperは強い印象を与える呼称だが、切り裂きジャックもなかなか原語に劣らない喚起力をもっている。
もちろんJack the ripperを単純に訳せば、誰でも「切り裂きジャック」になるだろうと言われればそうかもしれない。でも最初にそう訳した人はやはりすごい。仁賀さんによれば、日本で初めてJack the ripperを紹介したのは、事件から40年後の牧逸馬『世界怪奇実話』だという。そこで牧逸馬が「女肉を料理する男」と題して切り裂きジャックを取り上げたのだそうだ。のちにタイトルが「切り裂きジャック」と変更された。
仁賀さんが引用している部分からは、牧が本文で「切り裂きジャック」と書いているかどうかまで確認はできない。だから、その後殺人鬼が「切り裂きジャック」と呼ばれるようになってから、タイトルがそれに合わせて変更された可能性もないわけではない。
むかし『世界怪奇実話』を持っていたはずだが、手放してしまったようだ。以前光文社文庫から、島田荘司さんの編にて復刊されたとき、買うか迷った記憶がある。買わずにそのままになって、古本で見かけたときも同じように迷ったように思う。買っておけばよかった。
Jack the ripperにせよ、切り裂きジャックにせよ、その名づけのうまさも殺人者像の増幅にあずかって力があったのではないだろうか。