府中には長谷川利行がある

近代洋画にみる夢

  • 近代洋画にみる夢 河野保雄コレクションの全貌@府中市美術館

土日に出張があった代休を利用して、府中市美術館に行く。前回のデルヴォー展のおりは車で行き、渋滞で往復に苦労したので、今回は京王線とバスを使う。最近美術館の展覧会情報はネット経由で知ることがほとんどだが、この展覧会はそうでなく、漱石特集のため久しぶりに購入した『芸術新潮』6月号によって知った。『芸術新潮』を買わなかったらどうなっていたのだろう。
それほどに期待をはるかにこえて素晴らしく充実した展覧会だった。河野保雄というコレクターの名前はまったく知らなかった。『芸術新潮』には長谷川利行17点・関根正二11点とあり、これにまず惹かれた。府中市美術館のサイトで調べてみると、河野コレクションは、洲之内コレクション・窪島誠一郎コレクションに比肩するとあって、ますます関心が高まった。
しかも、堀江敏幸さんの処女長篇『いつか王子駅で』*1(新潮社)のカバーを飾る長谷川作品「荒川風景」は府中市美術館蔵だったと記憶していた。とすればこの絵も河野コレクション中の一点である可能性が高い。そもそもわたしが長谷川利行という画家を意識しだしたのは、2001年に出た『いつか王子駅で』であったように思う。だから「荒川風景」は、わが“長谷川利行好き”の原点に位置する作品なのだ。
会場に入るといきなり長谷川利行作品がずらりと並んでいる。そこに当然「荒川風景」もあった。興奮せずにはいられない。そこからギャラリーの奥を見通すと、壁面にぎっしりと絵が掛けられている。通常絵の展覧会は壁面をゆったり使うことが多いが、そんなことをやっているとすべて展示できないという雰囲気の陳列なのだ。どちらが良くてどちらが悪いというわけではない。こんなふうにぎっしり絵が詰まっているのは、この濃密さのなかにこれからどんな素晴らしい絵が先にあるのだろうという期待をさらに増幅させる効果があった。
長谷川利行は「荒川風景」はもとより、いかにも利行らしいタッチとマティエールの「カフェの入口」もいいし、水彩の「川のある風景」「中華料理店」も一目で利行だとわかる描き方で好ましい。しばしこれら作品の前に佇んだ。帰宅後図録を見ると、河野氏のコレクターとしての出発は長谷川利行作品の蒐集により、100点以上を集めたのだという。
そうして集めた長谷川作品を売って(どの程度売ったのかわからない)購入したのが、同郷福島出身の画家関根正二の「一本杉の風景」だった。関根正二は、東京国立近代美術館の「三星」が印象深く、人物画が多いのかと思っていたら、この「一本杉の風景」のほか、人物画の画風とはおよそ異なる味わいのある「牛舎」などもあって、多少これまでのイメージが変わった。
そのほか、青木繁小出楢重萬鉄五郎・中村彝・岸田劉生・村山槐多・木村荘八恩地孝四郎・野田英夫松本竣介・清水登之・靉光など好きな画家の作品がずらりと並び、堪能した。小品ながら野田英夫の「壁画下絵」はいつものモンタージュ画法を用い、哀感が漂ういいものだった。
河野氏はガラス絵蒐集にも熱心で、これは子供のときに出会った思い出の延長線上にあるという。ここにも長谷川利行のガラス絵が7点。割れているものもあるが、名刺大よりひと回り小さいガラスに描かれた「T・H」の極小品も捨てがたい。
版画では谷中安規長谷川潔。とりわけ今回は長谷川潔のメゾチント版画の風合いに見とれる。石版画の冷たさとも異なる「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」「セードルの実のある静物画」の質感は、どうやって出すのだろう。
洲之内コレクションの場合、一人の画家につき作品数はあまり多くない。ある特定の画家を集中的に集めるということはないのである。いっぽう河野コレクションにはある特定の画家、ある特定のジャンル(ガラス絵など)に沿って多くの作品が収められている。コレクターの個性もさまざまだが、河野コレクションのようなばあい、そのコレクターの好みと、観る立場のそれが合致したときの喜びは絶大なものがある。だから今回わたしはこの展覧会を観ることができて幸せだった。
河野氏は音楽評論家から出発し、福島で貸しビルや水商売を営んだ実業家であり、馬主でもあったという。そこで得た財が、自らの情熱と感性にもとづいて芸術作品に投ぜられたというのは素晴らしいことである。しかもそれらがある程度まとまって府中市美術館や福島県立美術館に譲渡されたことも大きい。
コレクター河野保雄氏の足跡をたどることもできる図録(2000円)は必携であり、巻末のコレクション総目録(全点小さいながら図版あり)も貴重資料だ。これを見ると、展示されていない長谷川利行作品が府中市美術館にはあって(「浦安風景」「三河島風景」など)、いつの日か、と思わずにはおれない。