初出一覧必須の書き手について

アイロンと朝の詩人

不思議なもので、読んだ本の感想を久しぶりにこのブログに書いてみようと思い立った。読んだのは、堀江敏幸さんの『アイロンと朝の詩人』*1(中公文庫)である。
電車でこの文庫本を読みながら、読んだことを憶えているものと、さっぱり忘れていて初読のような印象をもったものふたつに分かれた。憶えている文章を初出一覧で確かめてみると、およそ自分がその初出媒体に接する機会はなかろうというものが多いから、きっと単行本で読んだのに違いない。なにせこの文庫版は2012年の10月に出た。文庫版で読んでいるはずがない。
そう思って過去のブログに検索をかけたら、たしかに読んでいるらしい(→2010/1/7条)。ただそこでの行動もあやしい。単行本は2007年に出た。2010年のわたしは、堀江ファンであるにもかかわらず、その単行本を買ったまま読まずに2年間もほったらかしにし、読み始めたはいいものの、なかなか捗らないでいる。しかもその読書が最後までたどりついたのかはわからないまま。
いま単行本を書棚から出してみると、読みさしであることを示す栞などは挟まっていない。だとすればひととおり読んだのだろうか。いずれにせよ、楽しく読み、こうして久しぶりに長文の感想文めいたものを書きたくなったのだから、堀江さんの本が与える刺激は絶大なものがある。単行本を読んでいた頃と変わらないのは、そのとき書いていたこんな一文に示されている。

やはり堀江さんの世界に沈潜するのは精神衛生上とても大切なことだと痛感したのである。
今回もまったくおなじだった。堀江さんの文章を読むことは、自分にとって精神衛生上とてもいい効用がある。未読のままの堀江本が何冊かあるから、この機会に読もうか、あるいは既読の散文集をもう一度開こうか、書棚を見ながらあれこれ考える余裕が出てきた。
今回堀江さんの文章を読んで思ったこと。
固有名詞をずばりあげるのではなく、輪郭線だけ描いて中身はそのままにしておくという描写法。輪郭線によって答えはわかるのだけれど、堀江さん自身が書くことはない。「ファラオの呪いが町田まで」で描かれる元首相のポルトレなどが印象深い。
堀江さんは実に多彩な媒体に散文を書いている。一篇を読みはじめて数行から数頁達すると、いったいこの文章はもともと何に書かれたのだろうか。そんな疑問が沸き、巻末の初出一覧を参照してしまうことが一再ならずあった。こんなことはほかの書き手ではあまりないことである。いかにもその媒体にふさわしいテーマが展開されていて、なるほどもともとこの媒体に書かれたからこの話なのかと腑に落ちることもあれば、初出媒体そのものを知らないこともあった。
以前、おなじ堀江さんのおなじ散文集シリーズ「回送電車」のひとつ前、『一階でも二階でもない夜』に触れ、わが初出一覧派なることを吐露したことがあった(→2004/6/11条)。やはり堀江さんの本には初出一覧は欠かせないものであり、これを駆使してこそ、堀江さんの本を愉しめたということになるのではないだろうか。