納豆定食談義

君のいない食卓

川本三郎さんの『君のいない食卓』*1(新潮社)を読み終えた。昨年11月に出たときすぐ買ってはいたのだけれど、これに先行する“亡妻記”(川本さんご自身『君のいない食卓』のあとがきにてそう称しているので、失礼ではないだろう)『いまも、君を想う』*2(新潮社)を読んでつらかったので、気が乗らず、しばらく書棚の“川本コーナー”に並べたままであった。
川本コーナーは、机のすぐ左手、手が届く距離とと高さにある。パソコンから顔をふと左に向けると、川本さんの著作が目に飛び込んでくる*3。川本コーナーが目に飛び込んできたとき、無意識に『君のいない食卓』を手に取ってしまい、「未読なのだよなあ」と思いながら冒頭を読み始めたらつい面白く、そのまま最後まで読み進んでしまった。
奥様である川本恵子さんの闘病生活中から連載が始められ、連載中に死別した。だから本書は奥様との食の思い出が多く書きとめられている。それだけでなく、“食の自叙伝”とも言うべき、幼い頃からの食生活もたくさん詰め込まれている。
川本さんの父上が戦死した戦争で亡くなったというのを本書で初めて知った。これまでの著作でも書かれていたのかもしれないが、はっきり意識したのは本書が初めてということ。川本さんは1944年生まれだから、ほとんど父上のお顔を知らないで育ったのではあるまいか。それもあって、川本さんは戦争映画を観ることができないという。映画評論家でありながら…と弁明されているが、このことも初めて知った。そんな意味で、川本ファンとして、これまで語られてこなかった(意識されてこなかった)お姿にぐっと迫ったような気がしている。
食のエッセイでもあり、旅のエッセイでもある。『日本すみずみ紀行』『ちょっとそこまで』『旅先でビール』といった本の系譜を引いてもいる。だから本書を読むとビールを飲みたくなる。できないくせに、居酒屋ひとり旅をしてみたくなる。
「なぜか突然、鯉を食べたくなる」のなかで、奥様を赤羽の居酒屋に連れていき、そこのメニューにある「鯉の洗い」と「鯉こく」を食べさせたという挿話がある。これを読んで、川本さんの短編小説集『青いお皿の特別料理』*4NHK出版)の冒頭の一篇「飛行機が欠航になって」を思い出した。ここでは、新聞社を定年前に辞めた男が、これからは妻と二人の時間を過ごすのだと、昼前の時間帯に妻を赤羽の居酒屋に連れて行くという流れになっている。二人はそこでウナキモや鯉の洗いを食べる。夕暮れどきの夫婦の景色として、心に沁みる短篇である。実際に奥様と出かけられた体験をたくみにつぎ合わせているのだなあと思うと、感慨もいっそう深まる。今度は『青いお皿の特別料理』を再読したくなった。
ところで『君のいない食卓』の一篇に「「きよや」の納豆汁」がある。子供の頃川本家にいた「きよや」という山形県出身の「女中さん」がこしらえてくれたおいしい納豆汁の思い出が綴られている。その話の前振りとして、吉野家の「納豆定食」の話題が出てくる。

米国産の牛肉騒ぎ以来、吉野家の牛丼がなにかと話題になったが、吉野家のもうひとつの素晴らしさは朝の定食にあるのではないかと思う。/とくに納豆定食。ご飯に味噌汁、納豆、海苔、生卵、それに漬物がついて三百五十円。コーヒー代より安い。いまどきこの値段でこれだけのものが食べられるのは有難い。しかも朝の六時から定食タイムになる。(34頁)
わたしが出張のおりなど吉野家で納豆定食を好んで食べるようになったのは、まったく川本さんの影響だから、「またここでも納豆定食!」と読んでいて嬉しくなった。
この納豆定食。みんなはどのようにして食べるのだろう。わたしの食べ方はこうだ。まず納豆のパックを開き、たれとカラシ、ネギを入れてかき混ぜる。生卵を割って器に入れ、醤油をちょっと垂らし、七味も入れてかき混ぜる。その器に、先ほどかき混ぜた納豆をすべて放り込み、もう一度よくかき混ぜる。これをご飯にのせて食べるが、海苔もそのとき取り出して、納豆卵かけご飯を巻いて食べる。紅ショウガも食べる前にご飯にのせる。つまり、漬物と味噌汁以外、出てきたもの、近くにあるものすべてを混ぜるという吉野家総動員である。この食べ方が正統なのかどうか、わからない。
「「きよや」の納豆汁」にもあるように、わが郷里山形は納豆食文化の先進地域であると自負している。納豆汁はもちろん、めんつゆに納豆を入れて、ゆでたうどん(そうめん)をつけて食べる「ひっぱりうどん」といった食べ方もあるし(今もときおりそうして食べる)、納豆をご飯にかけるのでも、卵をまぜたり、とろろをまぜたり。でもこれはどこでもあるだろう。わが家では、サイコロ状に細かく切ったプロセスチーズと、これも細かくちぎった海苔をまぜた「チーズ納豆」、納豆に味噌と砂糖を入れてまぜた「納豆味噌」をご飯にかけて食べていた。砂糖(グラニュー糖ではなくふつうの上白糖)と味噌をまぜると粘りけがなくなるというのか、逆に粘りけが強くなるというのか、あの納豆特有のネバネバ感がなくなるのだが、子供心に美味かったという記憶がある。“甘じょっぱい”とでも言うのだろうか。もっとほかにもいろいろなバリエーションがあったと思うが、忘れてしまった。
だから、川本さんの影響で食べるようになった吉野家の納豆定食は、山形で暮らしていた頃の、納豆になんでも混ぜて食べるという雑食的な思い出を呼び起こされるようなところもあって、とても懐かしさを感じてしまうのだった。

*1:ISBN:9784103776055

*2:ISBN:9784103776048

*3:ちなみに川本コーナーの上が丸谷コーナー、下が堀江コーナー、その下が戸板コーナー。左が山口瞳コーナーと海野弘コーナー

*4:ISBN:4140054107