実験小説の季節

言語小説集

出張の夜、学生時代の飲み会ではいつも二次会に立ち寄っていた飲み屋にて、恩師・先輩と飲み、別れたあとはホテルまでまっすぐ戻らず、わざと人通りの多い道を遠回りして帰った。変わってしまった仙台の町をたしかめたいということもあった。
広瀬通と東二番丁通りという大きな道路同士が交わる交差点に本屋ができたのはいつ頃だったろう。あゆみブックスという。いままで入ったことがなかったけれど、酔って町中を歩き回りひと休みしたかったのと、多少の“本恋しさ”も手伝って、九時過ぎでもまだ開いている店内に足を踏みいれた。
いま同店のサイトで調べてみると、もともと首都圏中心に店舗を展開していたが(首都圏のお店には全く入ったことがない)地方進出第一号として仙台店(わたしが入った店)が開店したのは2000年7月とのこと。さらに仙台市内中心部の書店の盛衰について、次のように書かれている。

仙台中心街ではここ十年ほどのあいだに、東北最大級の大型店として仙台の書店文化を担ってきた金港堂ブックセンターさんが郊外移転、老舗の宝文堂さん、高山書店さんが廃業され、駅前随一の品揃えを誇ったアイエ書店さんも吸収合併で姿を消しました。代わりにジュンク堂さんと丸善さんが仙台駅前に、紀伊国屋書店さんが副都心地域に、それぞれ仙台店を展開するという目まぐるしい状況が続いています。
わたしが仙台に住んでいた頃は、ここに書かれてある金港堂・宝文堂・高山書店・アイエ書店・丸善(移転前)によく訪れていたものだった。これに加えて、現在さくら野百貨店がある駅前の建物(昔は丸光といった)の地下にあった八重洲書房。それぞれのお店に思い出がある。それらがことごとくかつてあった場所からなくなってしまったわけだ。あゆみブックスが開店したのは仙台を離れて以後のことだから、何かのおりに仙台に来たとき、それまで見慣れていた建物のなかに書店が開店したことは知っていても、あえて訪れるまでには至っていなかったのである。
さて、あゆみブックスに一歩入った時点で「これはいい本屋だ」という雰囲気を察知した。最初に目に飛び込んできた、伊坂幸太郎さんのエッセイ集『仙台ぐらし』*1荒蝦夷)を迷わず買うことに決めたのも、そんな雰囲気ゆえだ。こういう本が出たことは知っていたが、書店で目にする機会がなかった。
わたしより4歳年少でおなじ大学出身という伊坂さん。いまも仙台に住み、仙台を舞台にした小説を書きつづけておられる。同書収録の一篇「消えるお店が多すぎる」のなかで、学生時代によく通った東一番丁通りにある書店は七軒あり、いまではそのうち二軒しか残っていないと嘆いておられるが、たぶんわたしも似た記憶を共有している。読んでいて深いため息が出た。
それはともかく、あゆみブックスはいい。「本を買わせる仕掛け」が横溢している。本好きにはたまらない本屋さんだ。『仙台ぐらし』のほかにもう一冊購ったのは、井上ひさしさんの新刊短篇集『言語小説集』*2(新潮社)。和田誠さんのデザインが目についたのは当然だとしても、それが堀江敏幸さんの新刊『時計回りで迂回すること 回送電車5』*3中央公論新社)の隣に平積みされていたというただそれだけで、即購入を決めた。東京に帰ってからでも買えるのに。本を買うタイミングとは、その時の気分、その時の財布の中身(これが一番か)、書店の並べ方(見せ方)など、さまざま条件によるものだとあらためて思う。
『言語小説集』には、七篇の短篇が収められている。いずれもことばにまつわる小説であり、●や「などの記号を擬人化する「括弧の恋」などは実験小説のおもむきがある。1992年から95年まで、『中央公論文芸特集』に発表されたものをまとめている。発表から20年近く経って、著者没後ようやく単行本化されたということになる。
帯には筒井康隆さんの紹介文が刷られている。
記号が擬人化され、方言がとんでもない大役を果たす。まったくもう、なんということを考えるのか。/これは「言語による演劇」である。
無機的なモノに命を吹き込むということでは、当の筒井さんによる『虚航船団』を思い出した。というよりも、全体として、ことばの本質に迫るために趣向を凝らすという方法が筒井さんのそれとの共通性をうかがわせるのだ。『虚航船団』をはじめとする筒井さんの実験的小説に熱中していたのは、80年代後半から90年代はじめ頃だろう。新刊というわけではなく、文庫化という機縁もあったろうが、このとき『虚人たち』『旅のラゴス』『夢の木坂分岐点』『驚愕の荒野』『残像に口紅を』『ロートレック荘事件』といった、精神分析を導入したり、言語の本質に迫ろうとした作品を愛読した。
『言語小説集』収録の諸篇も、時期的にこれら筒井作品と前後して(ほとんどは“筒井後”だろうか)に書かれた。だから読んでいて言いようのない懐かしさを感じたのである。こうした実験的小説を好んで読んでいたことがあったなあ、と。
このなかでは、方言が主役になっている「五十年ぶり」「見るな」が好きだ。方言を絡ませた作品を書かせて井上さんの右に出る者はいない。『国語元年』しかり『吉里吉里人』しかり。これらの作品を読むと、小説を読む愉しさを味わうことができる。「極刑」や「言語生涯」などの発話を主題にした作品などは、まさに筒井作品との共通性がある。帯に筒井さんのコメントがあるというのも、これ以外にない取り合わせということになろうか。