浮世絵からわかること

浮世絵戦国絵巻

午前中職場で所用をすませ、地下鉄を乗りついで表参道までゆく。そこから表参道を神宮前の太田記念美術館まで歩いた。いま読んでいる吉田篤弘さんの木挽町月光夜咄』*1筑摩書房)に、表参道A4番出口という語句が頻出する。それが気になってA4番出口を探したところ、ちょうどわたしが進むべき方向とは逆に出る出口だった。「ここがかのA4番出口…」と確認しただけで、A3番出口から地上に出た。
さて太田記念美術館の展覧会「浮世絵戦国絵巻」展は、その名のとおり、戦国時代の武将や合戦、お城などを描いた浮世絵の展示であった。もちろん江戸時代から明治にかけて描かれたものがほとんどだから、戦国時代を知るための史料とはなりえない。しかしながら、江戸時代や明治の人びとが、この時代の武将をいかにイメージしていたのか、といった歴史認識を知るうえでは、とても有益な展覧会であった。
いまわたしが研究対象としている歴史的人物として、加藤清正鳥居強右衛門がいる。来月刊行する拙著『記憶の歴史学 史料に見る戦国』講談社選書メチエ*2のなかで取りあげた細川ガラシャを含め、彼らは浮世絵の画題としても選ばれた。
展示は前後期に分かれていたため、強右衛門・ガラシャの絵は図録でしか見ることができなかったけれど、清正の絵はいくつかあった。テレビドラマもふくめ、なぜ清正はああした「猛将」イメージなのだろうか。髭モジャで、髪が天然パーマ。たしかに「賤ヶ岳七本鎗」だし、虎退治が有名なのだろうけれど、「へうげもの」ではとうとう具志堅さんになってしまっていた(しかしそれが妙にハマっていた)。肖像画の清正は、アゴがとがって細面の人なのだ(何となく神経質な印象)。
いっぽう細川ガラシャの絵は、なんと小林清親が描いている(「今古誠画 浮世絵画類考之内 慶長五年之頃(細川忠興室)」)。今年の2月に熊本県立美術館でガラシャの講演をしたときから担当の方とのあいだで話題になっていたのは、はたしてガラシャキリシタンであったことは、当時の人びとに知られていたのかどうか、ということ。江戸時代という時分柄、細川家では当然彼女がキリシタンであったことは伏せていただろう。家譜にもそうしたことは書かれていない。
そうなると、一般的にも知られていなかった可能性がある。17世紀なかば寛文年間に出た『本朝列女伝』にもそのようなことは書かれていない。そして清親描くところの浮世絵を見ても、ガラシャキリシタンであったことをうかがわせるような表現はまったく見られない。
清親がこれを描いたのは明治18年(1885)のこと。彼女がキリシタンであったことを大衆的に普及させたのは、明治13年に刊行された『日本西教史』である可能性が高いとみていたのであるが、そのあと描かれた清親の絵でもその雰囲気はうかがえない。ひょっとしたら、ガラシャキリシタンという認識は、それからもっとあとになって形成されたのかもしれない。もちろん、そのとき「ガラシャ」という洗礼名が有名になったのである。だからこそ、清親は「細川忠興室」なのである。細川忠興室が、「細川ガラシャ」という自立した女性(?)に変わったのは、いつ頃なのだろうか。