映画館の空気がゆるむとき

怪優伝

むかしの日本映画を映画館で観ているとき、ある俳優がはじめて登場する場面で、いっとき館内の空気がゆるむ、和やかになる、という経験をすることがある。そういう雰囲気をつくる俳優として浮かぶのは、伊藤雄之助小林桂樹三國連太郎の三人である。
存在感抜群の“怪優”伊藤雄之助はともかく、また小林さんは惜しいことに亡くなってしまったが、三國・小林のお二方は、現在も活躍している老優の若かりし頃の姿だ、と一緒に観ている年輩の方々が懐かしく思われているからかもしれない。ただ、小林さんのばあい、リアルタイムでもそういう雰囲気をもたらしたというから、たんなる懐かしさだけではないのだろう。その俳優の身体が帯びるオーラがそうさせるのである。
三國さんのばあい、現在も一線で活躍され、また「釣りバカ日誌」のような娯楽映画でもおなじみの、また佐藤浩市の父親としても知られるあの俳優が、若い頃こんな感じだったのか、そういう気持ちも込められているに違いない。わたしがそうだからだ。
三國さん出演映画で印象に残るのは、オカマキャラの編集者を演じた「青色革命」、ひょんなことから殺人をおかし、証拠隠滅に躍起になる実業家を演じた「死の十字路」、代表作として名高い「飢餓海峡」、“カジカおたく”の研究者を演じた「あした来る人」、戦争のせいで精神に変調を来した若者を演じた「本日休診」あたり。成瀬巳喜男監督の「妻」も印象深い。「青色革命」「本日休診」「妻」あたりは、出てくると空気がゆるむという経験をしたように思う。
佐野眞一さんの新著『怪優伝 三國連太郎・死ぬまで演じつづけること』*1講談社)は、佐野さんによる三國さんへの長時間にわかるインタビューにもとづき、三國連太郎という俳優の生い立ちから、戦争経験、印象的な出演映画の思い出、共演俳優の思い出、役者論、死生論を描き出した面白い本であった。
オカマキャラ「青色革命」についてはタイトルだけ触れられたにとどまるが、おなじようにオカマキャラを演じたという「吹けよ春風」についての挿話が面白い。この作品で三國さんは、脚本を勝手に変え、自分からオカマキャラにしてしまったため、脚本を担当した黒澤明の作品にはその後使ってもらえなくなったという。「吹けよ春風」は観たはずなのだが、不思議に憶えていない。
三國さんは十回やって十回とも違う演じ方をする俳優なので、脚本どおりきっちり演出をしたい監督には嫌われたという。小津映画にも出演していない。市川崑監督にも嫌われていると本人は言うが、人柄的には好かれていたらしく、「青色革命」や「犬神家の一族」(これはほとんどカメオ出演)にも出演している。
聞き手の佐野眞一さんは、三國さん自選の十作品を一緒にDVDで鑑賞しながら、細かいところまで聞きこんでいる。大学時代映画関係のサークルに所属していたというだけあって、映画ファンの立場として「こういうことが知りたかった」というところを見事についてくれており、稀有な聞き書になっていると思う。鶴田浩二との確執、渥美清論、三木のり平論、高倉健論、そのほか共演俳優の印象、子息にして同業者である佐藤浩市への厳しいまなざしなど、ひとつひとつが面白い。
とくにおなじ“怪優”伊藤雄之助論などは本書のなかでもとびきりの名場面である。
「特別なリズム感を持っていた人」「感心したのは、あのリズムの速さです。あれだけ速いリズムで台詞をしゃべりながら、きちんと観客に伝わっている」「頭のいい役者だったですね。彼は僕の芝居をゆるく見せないためにテンポを上げている。だから、音楽的なんです。ああいう役者はもういないんじゃないですかね」
これは山本薩夫監督の「にっぽん泥棒物語」を観ながらの聞き書である。伊藤雄之助について聞いてくれる佐野さんが素晴らしい。この映画は何度か観られる機会はあったものの、未見である。俄然観たくなった。
三國さんの生き方について印象に残る言葉も多かったのだけれど、そのなかからひとつあげれば、これだろうか。

やっぱり人の言う評判に耳を傾けることなんかないと思います。やっぱり自分のインスピレーションみたいなものだけが、真実なんだと思いますね。(50頁)
これと似たような箴言はたまに聞くが、実際こういう境地に達するには、どれだけの人生経験が必要になるのだろうか。
監督論・俳優論(結局は人物論となる)としての三國語録として、久しぶりに一気に読んだ本となった。