円紫さんを越えてしまった

飲めば都

北村薫さんの新刊長篇『飲めば都』*1(新潮社)を読み終えた。ある一流出版社の編集者をしている女の子小酒井都さんを主人公に、彼女を取り巻く同僚たちとの“酒のつきあい”を中心に進む物語である。
帯には「文芸編集女子」「酒女子」とある。これは出版社のほうで付けた言葉なのだろう。でも本文中にも「○○女子」という言葉が出てきたようにも思う。わたしはどうもこのフレーズが苦手だ。この小説のなかで展開される、都さんと先輩同輩たちの気のおけない人間関係にも違和感がある。自分の職場がそういう人間関係にはならないような雰囲気であることからの憧れなのか、たとえそういう気のおけないフランクな職場であったとしても、自分の性格としてそこには入っていけないだろうという妬みなのか、それらの気持ちがないまぜになって、小説に登場する人びとに感情移入ができなかった。
物語としては酒の場の挿話中心で、そこに都さんの編集者としての仕事や恋がからみながら時間が進んでいくというかたちになっている。これら挿話のひとつひとつはたいへん面白いのである。しかし、いったん本を閉じてしまうと、栞を挟んだ箇所から再開するのが何となくおっくうだった。申し訳ないけれど、北村作品の愛読者としては珍しく読みながら複雑な気分になる。
この本を読みながら、わたしは北村さんのデビュー作である『空飛ぶ馬』を思い出していた。若い女の子(使いたくないが便利だから言えば「文芸女子」)の気持ちの細かな変化を、ごく軽やかに描くあたり、共通しているのではないか、と。
わたしが東京に住むようになったのは1998年だが、それまで北村薫という作家を知らなかった。翌年北関東のある女子大で週一コマの非常勤講師をすることになり、そこで知り合ったおなじ立場の先生から教わったのである。
無愛想であまり気さくに他人と話せない性格なので、授業に出向いても、講師控室などで一緒になる他の先生と気軽に世間話を交わすことはなかった。しかし、毎週通っているうち、仕事帰りに大学から駅に向かう路線バスと、その駅から都心へ向かう電車でいつも一緒になる先生がいることに気づいた。あるとき何かのきっかけで話をし始めたら、お互い本好きであることを知ったのである。それから毎回、都心までの一時間程度の時間、ほとんど本の話をしながら帰ったことを懐かしく思い出す。
北村薫さんの名前もその先生から教わったのである。最初その響きを耳にして、わたしは「高村薫」さんのことだと勘違いしたのでよく憶えている。その話をしたのが、電車がどこかの川を渡る鉄橋の上だったことも。もうデビューから10年近く経っていたわけだから、ミステリ好きとしては迂闊なことであった。
それから北村さんの本を急いで集めだし、謎解きのあざやかさとブッキッシュな道具立てに一気に魅了された。『飲めば都』を読んで『空飛ぶ馬』*2を思い出し、ひさしぶりに書棚から取りだして、冒頭の「織部の霊」を読み返してみたのである。初めて読んだ十数年前から現在までのあいだに身につけた知識が少しはある。それが「織部の霊」にちりばめられた小道具と共鳴し、初読のおりにはたぶん理解できなかったであろうことがあまりにも多すぎるのを知って、あらためて北村作品が自分の好みに合うことを確認した。またこの短篇のなかで展開される先生の昔語りにたちこめた雰囲気が、乱歩作品や横溝作品によくある独白に通じるものがあってドキドキした。
織部の霊」のなかで、円紫さんは「四十をわずか前にしている」という年格好であることが書かれている。これを目にして時の移り変わりのはやさに衝撃を受けた。初めて読んだときにはずっと年上のおじさんだと思っていたのに、いまのわたしはもう円紫さんの年齢を越えているらしいからだ。『空飛ぶ馬』を発表した頃の北村さんがちょうど40歳頃でもあった。時間は刻々と経っていくものなのである。