大本事件と本能寺の変

大本襲撃

本能寺の変には謎が多い。とくに首謀者については、明智光秀の単独犯なのか、その背後に誰か“黒幕”がいるのかどうか、実証的に解き明かそうとしたものからいわゆる“トンデモ説”まで、さまざまな説が飛び交っている。『歴史読本』の来月刊行号(7月号)は本能寺の変特集であり、わたしも寄稿する予定なのだが(もっともわたしの担当はそういう謎とはあまり関係ない)、ここでもいろいろな説が紹介されることになるのだろう。
先日買って面白く読んだへうげもの二服*1講談社文庫)でも、本能寺の変についてたいへん刺激的な“犯人像”を提示していた。犯人像はおろか、本能寺の変の描き方もまた背筋が凍るような恐ろしさであり、それが痛快ですらあった。
光秀の背後に黒幕がいるという説が出れば出るほど、その反動で、「いや、本能寺の変は光秀単独犯行だ」という説も強く叫ばれるようになる。その代表的な論者が藤本正行さんだろう。
藤本さんは近著本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』*2洋泉社歴史新書y)のなかで、事前に光秀が誰か別の人間と信長を討つための談合をしていたことはほとんど考えられないと強く主張している。

秘密というものは、それを持つものが複数になった瞬間から、漏洩の可能性がネズミ算式にふえるものであり、遺漏防止をコントロールできなくなるのである。だから、相手がよほど例外的な人物でないかぎり、光秀が六月一日以前に(本能寺の変は二日―引用者注)、誰かに謀反の意思表示をすることは考えにくいのだ。(127頁)
たしかにそうだよなあ、と単純なわたしはそう思う。このとき光秀軍の一兵士として本能寺を襲撃した人物がのちに記した覚書として知られる「本城惣右衛門覚書」によれば、惣右衛門は光秀が羽柴秀吉の援軍として中国へ向かうとばかり思っていたら、途中で京都に行くことを知らされたとある。兵士たちはもとより、配下の主だった武将たちもそうだったのかもしれない。
光秀が出発したのは、居城である丹波亀山城(現京都府亀岡市)であった。亀山城は明治の廃仏毀釈のおり建物が取り壊され、その後大本教の本部が城跡に置かれた。新宗教の本部が由緒ある城郭跡にあるという不思議な気持ち、ずっと昔、弾圧により破壊された神殿の写真を見たときの衝撃、たとえば天理教金光教などの本部のある町の奇妙な(でも何となく惹きつけられる)雰囲気、こういうものがないまぜになって、わたしは新宗教が気になって仕方がない。
だから早瀬圭一さんの『大本襲撃 出口すみとその時代』*3新潮文庫)も買って読んでみた。なるほど大本(教)とはこういう宗教団体なのかということがわかったし、出口王仁三郎・すみ夫妻の人物像、二度にわたる弾圧事件の推移など詳しく知ることができて面白かった。
ただ、本書のそういう本筋とは別の部分で、読んでいて「あっ」と思ったことがあった。
本書の前半は、昭和10年における第二次大本事件のさい、京都府特高課長として捜査を指揮した杭迫軍二という人物の視点から書かれている。検挙当日の12月8日、大本を襲うことになる警察官500人は、「臨時年末一斉警戒」の名目で京都御所に集結、大型バスや普通乗用車・トラックに分乗した。彼らが行き先を告げられたのは、京都から丹波地方に向かう老の坂という場所だったという。
老の坂は丹波方面から京都や山崎に向かう分かれ道になる場所であり、本能寺の変において、丹波を発した明智軍は、おそらく老の坂から山崎方面(すなわち中国地方)に向かわず、京都方向に進んだはずだ。つまり、本能寺の変と大本襲撃は、亀岡(亀山城)と京都という二つの地点が共通し、それぞれ襲撃の方向がまったく逆という面白い関係にあるのである。しかも襲撃の実働部隊は、当初自分たちがどこに行くのかまったく知らされず、途中で知らされるということまで似ている。
大本事件の場合、検挙日が事前に新聞社に漏れることを警戒してこのような機密保持がなされたという。やはり目的を知っていたのはごく一部の上層部だけ(しかもその上層部が知ったのも直前だろう)だった。
亀山と京都、奇襲、情報漏洩をさけるための襲撃先開示のタイミング、大本事件のそうしたポイントが奇妙に本能寺の変と一致して深い感動をおぼえ、藤本さんの説を思い出したのであった。『大本襲撃』という本の核心部分とまったく関係ないのだが、このような発見をするのもまた、読書の愉しみのひとつである。