五十代へむかって

鉄のライオン

重松清さんの文庫新刊『鉄のライオン』*1光文社文庫)を読み終えた。
本書は、1981年、田舎を出て東京の大学に入学した「僕」を主人公にした連作短編集という体裁をとる。この「僕」とは重松さん自身をモデルにしている。ここに収めてある短篇すべてが東京という大都市であたらしい生活を送ることになった「僕」を主人公に、81年という時代を舞台にしたものというわけではない。そのあたりに構成上の妙味がある。
たとえば「4時間17分目のセカンドサーブ」。主人公は「僕」に違いないのだが、ときは2003年。20年以上経過し、「僕」は40歳を過ぎている。バブル景気を経て人生の浮き沈みをほどほどに知り、人生の折り返し点にさしかかっていることを自覚している。かつてバブル時代に羽振りが良く「勝ち組」であった同級生は、バブルがはじけた今、作家となった「僕」とはすっかり立場が逆転してしまった。その彼から、一緒に1982年ウィンブルドン男子決勝のビデオを観ようと誘われる。当時最盛期にあったマッケンローからジミー・コナーズが死闘のすえ勝利をもぎとった試合だ。
この試合にふたりの人生を重ね合わせていくあたりはさすが重松さんである。そのおしまいのほうで、重松さんはこんなことを「僕」につぶやかせている。

テニスはサーブを二回打つことができる。ファーストサーブが失敗したら、セカンドサーブでエースを狙えばいい。セカンドはファーストほど思いきりよく打ち込むことはできないが、四十歳を超えた僕たちは、そろそろセカンドサーブに磨きをかけることを覚えたほうがいいのかもしれない。
本書のなかでもっとも印象に残った一文がこれだった。
本書は四十歳を過ぎたばかりの重松さんによって書かれた。本書全体のむすびの一文は「答えは、四十を過ぎてもわからない」であった。
それから7年がたち、重松さんは五十の大台を目前にしているという。わたしは重松さんの4年年少である。来年誕生日を迎えると「四捨五入して五十」となってしまう。重松さんに期待するのは、五十の大台を目の前にした男の心境を小説にしてくれるだろうということだ。
これまでは子どもたちも少しずつ生意気になってきた40歳代の男の代弁者として、その世代の人びとに襲う身体の変化や家庭の問題、彼らがふりかえる子供時代青春時代が描かれた。たぶんこれからの重松作品は、五十代が意識されてくることになるはずだ。4年遅れのわたしは、そういう重松作品を心待ちにしながら、年齢を重ねていき、みずからも五十代を意識するようになるのだろう。