父親への慈愛

いとま申して

父親のことを書いた作品として、すぐ頭に浮かんできたのは、沢木耕太郎さんの『無名』(幻冬舎 →2004/1/1条)、そして小林恭二さんの『父』(新潮文庫 →2003/4/9条)だった。北村薫さんの『いとま申して 『童話』の人びと』*1文藝春秋)を読みはじめて、そのことを考えていたのである。
それぞれ細部はすっかり忘れている。過去に自分が書いた感想をよすがに、記憶を搾りだしてみると、小林さんのばあい父親との葛藤、また沢木さんのばあい父親への尊敬というのが根にある本だったように思う。
それでは北村薫さんのばあいは何だろう。ひと言であらわせば「慈愛」だろうか。旧制中学の生徒だったときから書きはじめられていた日記をもとに、慶應義塾予科に入って三田で学生生活を送る時点まで、ほぼ十代後半の父親の姿が描き出されている。
日記がそのまま引用されていることも多い。このばあい、その日記を読み、引用する著者北村さんの姿を読者は想像している。北村さんが父親の日記帳を一ページ一ページめくっていく…、そんな場面だ。ところがある部分では、日記原文から離れ、そこに書かれていた記事がもとになっているのだろう、友人や家族との会話が挟みこまれる。日記そのものに会話が書かれているのではあるまいから、日記から小説家北村薫が生み出した場面ということになろうか。カメラがページをめくる指から突如回想シーンに転換する、そんなイメージだ。その場面転換がごく自然なので、読んでいて飽きさせない。さすがミステリ作家北村薫らしく、ところどころに興味を惹く謎(といってもそれほど大げさではない)が仕掛けられ、それが明かされるというかたちで記述は進んでいく。そのストーリーテラーぶりにゾクゾクした。
本書をひと言であらわせば「慈愛」だと言った。父親を見るまなざしがとにかく温かいのだ。児童文学の雑誌に自作を書いて投稿する文学少年だった父の姿を、作家として一家を成した息子たる北村さんが見守る。父を書いているのだが、年齢的に(日記を書く父の年齢と、現在の北村さんの年齢という意味)それが逆転して、まるで自分の息子を見守るように、父の創作を応援する姿。こうした父子逆転の複雑な位置どりが、読む者をして不思議な気分にさせる。
ところどころに挟まれるポルトレも北村さん的な慈愛に満ちる。慶應の同級生だった加賀山直三と父の交友、また児童文学同人誌の仲間であった千代田愛三の薄倖、慶應で教えを受けた奥野信太郎の風貌。
帯にも引かれている「まことに、歴史とは、人を編み込んだ長い織物である」(150頁)という一節が印象的だ。歴史に名を残すほどの何かを成した人間ではなくとも、確実に“歴史という長い織物”のなかに編み込まれている、それが本書を読むとよくわかる。
この季節、昼休みにときどき立ち寄る職場近くの公園がある。広場に桜の大木が一本そびえる。ベンチとテーブルが一緒になった場所で、来る途中の店から買い込んできた弁当を食べたあと、桜の木のまわりに円形にしつらえられたベンチに移り、携えてきた本書を読みついだ。時おり風が吹いて花びらを散らせる。散った花びらが開いた本のあいだに舞い落ちてきた。そのまま本を閉じ、この季節にこの本を読んだ記念にした。