お楽しみはこれからだ

お楽しみはこれからだ

シリーズ物は一冊はまると厄介だ。コレクター気質があるから、その他の本も集めないでは気がすまなくなる。そのシリーズが現役ならばまだいい。すでに過去のものである場合、品切本を集めるのに苦労する。昨日の話ではないが、それこそ最終的にはネット古書店にすがることになる。悪い癖なのは、集めて満足してしまい、さっぱり読まないこと。
シリーズ物とはちょっと毛色が違うけれど、“夕刊フジ連載本”がそんな過去系のシリーズだった。整理していてしばらくぶりにこのシリーズが積まれた山にでくわし、しばらくその壮観に感動をおぼえ箱詰めの手が止まった。檀一雄五味康祐梶山季之、笹山佐保らの、いまはあまり知られていないエッセイ集が手もとにあるという満足感。
庄野潤三さんの“老夫婦物”は現役系のようでいて、そうではない。文庫化されているものも多いが、講談社から出た分のいくつかはいまだ文庫に入っていないうえに、単行本が品切れになっているから。
同じタイトルで数字が増えてゆくたぐいのシリーズは、すべて集め並べると見映えがよろしい。和田誠さんの『お楽しみはこれからだ』文藝春秋)の7冊がそう。和田さんファンではあったが、外国映画の世界に関心がなかったので、それまでまったく見向きもしなかった。けれども、ひとたび映画好きになると、たとえ多くがなじみのない外国映画であっても、気になるセリフを取りあげてイラストまじりの批評を加えるこのシリーズにたまらない魅力を感じた。
いま調べると、part1(ただし第一冊のため、実際の書名にはpart1とは入っていない)とpart2の2冊のみ、新刊で購入可能らしい。わたしはすべて古本屋、もしくはブックオフで揃えることができた。いまpart1の奥付を見ると、初刊が1975年、所持するのは2003年7月5日の第30刷とある。たいへんなロングセラーだ。最初の2冊だけ現役というのが不思議だが。
蒐集途上のシリーズの場合、どれを持っていて、どれを持っていないか、メモしておくことが大事である。でもわたしは面倒くさがりでそれをしないたちなので、いざ古本屋でお目にかかると、「はて、持っていたかなあ?」といつも迷う。値段が高ければ持っているだろうとブレーキがかかり、安ければ重複しても仕方ないと財布の紐がゆるむ。
さいわい『お楽しみはこれからだ』の場合、重複せずに無事全冊集まったのではなかったか。ただしこのシリーズも積ん読山のなかでバラバラになっていて、ようやくこのほど全冊が一堂に会した。
和田さんに申し訳ないが、このシリーズ、一篇一篇が短いから拾い読みに適し、また語り口が軽い反面で中味が充実しているので、トイレで読むにはもってこいなのだ。トイレに駆けこむ前に、本置き部屋の積ん読山のてっぺんにある一冊を手にしてからということがたびたびあった(ただしトイレに置きっぱなしにはしない)。だからある冊(のある篇)だけくりかえし読み返すこともある。
いま一堂に会したシリーズ7冊のうち、はてどれがトイレ本になっていたのだったか、紛れてわからなくなっている。それほどにどこを切っても面白く、お腹の痛さを忘れさせる麻酔的効用がいちじるしいエッセイ群なのであった。
全冊揃って書棚に並んだ姿を想像する。さてどれを拾い読みしようか、そんな愉しい迷いのひとときがくると思うと、文字どおり「お楽しみはこれからだ」という気分になってくる。