通史礼賛

趣味嗜好が偏向的でかつマニアックだからか、ある分野のことを包括的に叙述する概説書のたぐいはあまり好まなかった。たとえば歴史でいえば「通史」がそれにあたる。
子どものときから通史的な、あるいは教科書的な広く浅くという知識提供に物足りなさをおぼえたことはたしかで、教科書よりはその参考書を読むことに知的快楽を求めたし、先生が持っていた指導用のものを何かの拍子で見たとき、その詳しさに猛烈に欲しくなったことを思い出す。念のため言っておけば、これは日本史という教科にかぎってのことである。
なかば通史を馬鹿にしていたわけだが、通史に背を向けるあまり、反通史的なマニアックな知識ばかりを飛びまわり、あるときはその知識を納得がゆくまで掘り下げて、いかにも自分は反教養人的だという身ぶりを獲得していい気になっていても、あとからそれらの営みが通史というお釈迦様の手のひらのなかで動きまわっていただけに過ぎないことを知って愕然とする。
土方定一さんの文庫新刊『日本の近代美術』岩波文庫)はまさにそんな本だった。わたしは通史によって編み上げられた美術史をはなから拒否し、ただひたすら自分の好みにしたがって絵を鑑賞してきた。もとは澁澤・種村ばりのシュルレアリスム、幻想絵画の世界から入り、現在ではもっぱら近代日本人による洋画を好んで観るに至っている。
もちろんこれらすべてが主流から外れているわけではない。むしろすでに定評のある画家の作品ばかりなのだから、『日本の近代美術』という、土方さんによる近代美術史のなかに、わたしの好きな画家たちが並べあげられているのを読んで、これほどまでに通史とは面白いものかと、通史嫌いを返上したいという気持ちになった。
極力までそぎ落とし、ぬきさしならないというところまで切りつめられた評言は鴎外の史伝を思わせる。もとは岩波新書という器に書かれたものゆえ、全体の分量は多くない。250頁に満たない本文のなかに、江戸後期から敗戦直後に至るまでの日本美術の流れが一望されている。
そこでの土方さんの態度は、「経験としての美術史」というものだ。客観的でありつつも、自分がその絵をどう観たか、画家の人生や彼らが生きた時代とどう対峙したのかが簡潔な言葉のなかに凝縮されているから、通史ということすら忘れてページをめくる指が止まらなくなった。
たとえばわたしの好きな画家でいえば、「新しい知性ときびしい写実の眼の統一」速水御舟)、モンタージュした都会風景のなかに生活の哀歓を漂わせる褐色を主調とした作品」(野田英夫)、「どこか郷愁にかげる孤独な影像」国吉康雄)、「人間的で生活的な哀愁が深まる画面」佐伯祐三)、「小市民的な文化田園風景の画面とその造形秩序」岡鹿之助)、「貧困とアルコール中毒のなかでもくもらされなかった魂の宝石のような小品」長谷川利行)など、一筆書きでさっと書かれたように見えながらも、実はよく練られた言葉によって組み立てられた作品論、作家論となっており、その都度感銘を深くした。
偏向的でマニアックな方面に走るだけ走ったすえにたどりついた通史は何と滋味深いことか。
カバーには、本書がカテゴライズされている岩波文庫青の色と色調がうまくマッチした、“エビハラ・ブルー”の「曲馬」(海老原喜之助)が使われており、清々しくて好ましい。
日本の近代美術 (岩波文庫)